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Psychedelic Trash vol.1

rjnk.bandcamp.com

 

2017年の正月にPsychedelic Trash vol.1というコンピレーションアルバムが出ました。私も参加しています。上記のリンクからダウンロードできるのでぜひ聴いてみてください。値段が決められる投げ銭システムで、値段に「0」と入れればタダでダウンロードできますし、なんなら10万円でもOKです。

 

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ジャケットにでかでかとゴミと書いてあるということは真剣に聴かなくていいということなのでしょう。リスナーからすれば真剣に聴くべき音楽がたくさんあり、作り手からすれば頑張って作らなきゃいけない音楽がたくさんあるこの世界でなんとユルいコンピレーションアルバムでしょうか。

 

私はマジメなので毎日息苦しい思いをして生きておりますが、それというのもみんなが頑張りすぎてるからです。みんなが頑張ってるから「私も頑張らないと」と思ってしまうのです。いや別にそれが間違ってるとは思わないけど、でも正直疲れることもあります。

ところでアビリーンのパラドックスというものをご存知でしょうか?こんな話があったそうです。(wikiより抜粋)

 

ある八月の暑い日、アメリカ合衆国テキサス州のある町で、ある家族が団欒していた。そのうち一人が53マイル離れたアビリーンへの旅行を提案した。誰もがその旅行を望んでいなかったにもかかわらず、皆他の家族は旅行をしたがっていると思い込み、誰もその提案に反対しなかった。道中は暑く、埃っぽく、とても快適なものではなかった。提案者を含めて誰もアビリーンへ行きたくなかったという事を皆が知ったのは、旅行が終わった後だった。

 

こんな話はざらにあります。 誰も得してない。でも我々を支配する空気がそのような不合理な事態を起こさせるのです。

なあ?もうええやん。いや、そうじゃないと世の中回らんのんかもしれんけどさ。でもせめて音楽にはそういうしがらみから離れたやつがあってもいいじゃない。この世界は広くて音楽は自由なんだから。だからこそ「よしゃ!これはゴミじゃ!誰ぞ文句あるかーい?!」と宣言して、頑張らない姿勢により閉塞感を打ち破ることが行われたのではないでしょうか?

 

でもまぁ究極的には他人なんかどうでもいいんですよねぶっちゃけ。苦しんで死ぬなら勝手に死ねって話だし、誰に合わせるべきでもない。このコンピは閉塞感がどうとかってそれだけの話じゃないと思います。そりゃ他人も少しは気になります。ちゃんと休めてるかなとか飯食えてるかなとか、おせっかいながらも気になったりします。でもそれよりも重要なのは、ただ単にゴミみたいな音楽が好きという動機です。やりたかったから勝手にやっただけだと思われます。

ゴミじゃない音楽ってたくさんありますね。私はタンゴを聴いて「素晴らしいなぁ」って思ったりすることがあります。でもわけのわからない音楽も好きです。例えば日本の古いテレビCMを遅く引き延ばして繰り返したりする曲があります。こういうのも大好きです。

タンゴに比べればCMを引き延ばした曲なんかゴミです。でも、そういうゴミがこの世から根絶やしにされたら、それは残念なことだと思います。この世にはいろんな音楽があり、いろんな可能性があるのです。メインストリームがあれば、アンダーグラウンドもあるのです。「なんだこりゃ?」というわけのわからない、いわばちょっとした恐怖を与えてくれるような音楽も私は面白いと思うのです。ゴミは不気味で面白い。

いや、こういう理屈は不完全です。それだけで説明することはできない。とにかく好きなんです。好きという気持ちを説明するのは難しい。

私と同じような人はゴミみたいな音楽を好きになるだろうし、そうでない人はゴミみたいな音楽なんてどうでもいい、あるいは憎しみを覚えるかもしない。それについて私は別にどうしようというわけでもありません。ただやりたいからやっただけのことにあれこれ理屈をつけようとするのは、自分でもどこだか知らない場所へ案内してるようなものです。ついて来てる人に「どないやねん!」というお叱りをいただくようなハメになりそうです。なんだかんだ言うのはここらへんでやめにしようと思います。

 

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では、お節介ながらも今から一曲ずつ解説をしていこうと思います。ですがこれは私のゴミ観によるガイドなので、私とは違う見方からこれらの曲のゴミ性を語ることもできるでしょう。

私はこういうこと書くのが好きだしこういうこと書く才能あるんで書きます。

 

つぎの祭りへ

 平田義久 feat. 初音ミク

 

夏の曲です。イントロのドラムのソロ(フィル)が終わり、鐘のようなブワーっと広がる音が印象的です。左でシャンシャンなってるシンバルがノイズまみれで蝉の声のようだ。右のアコースティックギターがリズム楽器的にジャカジャカリピートされ、ベースがどこを向いてるか分からないような音色とフレーズで入ってきます。そしてバスドラムのサウンド。まるで和太鼓のようですが、芯がなく、従来のドッ!という詰まった音ではありません。空虚です。そして真ん中のギターのフレーズにも何かありそうです。なんだかいやらしいフレーズです。そのいやらしいフレーズから派生したギターソロがアドリブで適当に弾いたようなユルさ。そこに打って変わってチャキチャキしたキーボードが入ってくる。まるで祭りの縁日のようにごちゃごちゃ入り乱れています。全体的に芯がブレている。祭りばやしが遠くから聞こえてるようで、夏の暑くてダルい、幻のような曲です。でもこれ終わりの曲なんですよね。「次の祭りへ」て、もう一発目から祭り終わってるやんけ。ゴミを理解するうえで重要な要素が詰まっています。最初のイントロデューシングにもってこいのゴミでした。

 

私の目覚まし時計を勝手にセットしないでください

  ゆらぎと破片

 

抜けてたり詰まってたりのリズムです。全体的に音の立ち上がりが独特です。ハイハットのリズムとかカチッとしてない。引き延ばされ、引き縮められ、もうゆらっゆらです。そしてノイズまみれのクラップ(拍手)やギターが歯をヤスリで削ってくるような音を立てています。基本的に曲が進むにつれて新しい何かが被さり、それらが繰り返されています。やがて音が減るものの、そこからまた何か起こるかと期待すれば結局何も起こらないという、「どないやねん!」とつっこみたくなるような構成です。そもそも最初から流れてるホーンパート(サックス?)が絶妙に何がしたいのか分からない。「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」と言いながら沼に沈んでいっとるようなホーンです。あとタイトルも意味が分かりません。確かに勝手に目覚まし時計をセットされたら腹が立ちます。でもなぜそれを持ってきたのでしょうか?不思議ちゃんです。ここもまたゴミポイントです。

 

Planet trash

 MSS Sound System

 

この曲はフリージャズの一部分が切り抜かれて繰り返されています。元ネタとなった曲も混沌としていますが、その混沌は例えば流れていく川のようなものでした。しかし、この曲はループさせることにより”仕切り直し”がなされています。例えるなら、ゴムを伸ばして手を離すようなものです。手を離せば伸びたゴムは元の長さに戻りますが、その際の縮むエネルギーがさまざまな効果を及ぼすのです。この曲はさらにバスドラムで起点を補強し、SFドラマのコンピュータのような音で混沌を重ねています。「ドーンンンンン…」とゆっくり減衰していくバスドラムと、カオスなウワモノは時間の密度を構成します。その時間の密度は始めは濃く、後は希薄なものです。それは宇宙が膨張していくような感じです。それがループします。そしてそれとは別な軸がもう一つ流れています。それは途中で被さってくる伸びたシンセと過激なドラムとベースです。これらはカオスをガン無視して勝手にやっているかのようです。”無視したビート”。いいですねぇ。。。あ、でもゴミ。

 

発熱

 とーず

 

うねるノイズから始まります。そして右で繰り返される何がしたいのかわからないフレーズ。それから「あー」しか言わない歌。これ私もよくやります。私は別に意味はないけどただ単に声を出したい時や、単純に歌詞を考えるのが面倒な時にそういう風にします。まさかこれもそうなのでしょうか?右の何がしたいのかよくわからないフレーズに注目しましょう。この何がしたのか分からないフレーズは「適当に進んだけどこっちにも行ってみようかな」的な感じです。どこに行くのか自分でも決めてない感がバリバリ出ています。だから突然高い音に移行したりしちゃうんです。やがて曲は感動的なパートに移ります。ノイズが消えてコーラスだけになります。うるさいのおらんなったら感動的。そしてエレガントなピアノの和音が挿入されます。「良い話にまとめようとしてるのかな?」と思った矢先ふたたびノイズが「おるで」と言わんばかりにぶち壊します。そしてシンセのつまみをギュッと絞るような音が高揚感を出したと思ったら唐突に終わります。 ??? ゴミ。

 

サイケ・トラッシュ・アシッド・ダンス

 enaluke

 

このコンピにはさまざまな音楽的バックグラウンドを持つ方々が参加していてそれぞれ好きにやってるので面白いです。この曲の作者であるenalukeの音楽的バックグラウンドはトランス・ハウスなどのクラブ系の音楽と思われます。リキッドな質感のビートとうねうねしたスパーキングなシンセ。でも歌詞が意味不明です。レゲェ的なリズムと相まってフリーキーなテンションになっています。声が細く、変なこと言ってる割に必死な印象も受けます。どういう立場から歌ってんだよ。この曲は多分すべて打ち込み(自動演奏ソフトを使ってる)で使ってる声もボーカロイドであり、人間の歌や演奏は入ってないと思います。これ今となっては当たり前だけどよく考えたらなんかすごくないですか?今の時代はパソコンとネットのおかげで一人でもいろいろ好き勝手できるようになったし、その分ゴミもやりやすくなりました。良い時代ですね。打ち込みだけなぶんこの曲はある種の無機質さがあります。多分そういうのが全然知られてない1970年代にタイムスリップしてそこの人に聞かせたら多くは「不気味」だと思うでしょう。もちろん今の時代にはそういう音楽がたくさんありますが、そのクールさは今も私を惹きつけます。ゴミゴミゴミ。

 

T.R.Ash

 Jake

 

日常感があるけど、例えば私が日常を描くとしてもこういう風には切り取れません。情報というものの扱い方が私よりうまい気がします。ところで、私がゴミという概念を知ったのもこの曲の作者であるJakeの発言によってでした。(Jakeはこの曲を最後に引退してしまいました。でも彼の作品はまだニコニコ動画などで聴けます)Jakeの言うゴミとはいったいなんなのか?それは別に言葉の通りなのですが、考えてみれば難しい話です。例えばそれはラフマニノフが嫌いな人が言う「ラフマニノフはゴミだ」という意味とは違います。ではいったいどういう価値観から見てのゴミなのか?どうなんでしょうね?”メインストリームの価値観”と言えばそれまでだけど、それだけじゃない気もします。まぁそれを考えるのは今度にしましょう。さて、このT.R.Ashという曲はカッコいい。そもそもこのコンピはカッコいい曲ばかりだ。それじゃいったいゴミとは何なんでしょうね?謎です。もっとも、この曲の浮遊感、何言ってるかわからない歌、気圧のような音の塊、それらはまさしくゴミです。まったくこの曲はつかみどころがない。不思議ですね。これもゴミ!

 

20170101

 Ladypanther

 

なんか東南アジアっぽい気がします。しかし、テクノロジー系のSFっぽくもあります。東南アジアとテクノロジー系SFって相性いいんでしょうか?ところでこの曲にはロック的なギターが使われています。でもこれがロックだとしても、日本などでヒットしてるポップミュージックのなじみ深いロックとは違っています。なじみ深いロックとは、コードや伴奏がカチッとしていて歌があるような分かりやすいやつです。しかしこの曲は抽象的です。この曲はなじみ深いロックの構成はさておいて「音の響き」ということに目が向けられているのではないでしょうか?しかし音の響きというフィールドは分かりにくいです。私もそういう見方・聴き方があると知ったのはつい最近のことです。ビートが横のラインで、コードが縦のライン、フレーズが縦横だとすれば音楽にはそのほかに何もないような気がします。でもあるんですね。その盲点が音の響きです。思えば音響的な実験を始めたポップミュージックというのがロックでした。こういうことも今後いろいろ考えたいです。しかしタイトルが20170101ってSFっぽいタイトルと思わせて完全に正月やんけ。いまいちパリッとせんなぁ。はい、ゴミです。

 

attention

 solidsmoke

 

ロックです。日本などでヒットしてるポップミュージックのなじみ深いロックとは違っています。どこが違ってるかというと一聴して分かるようにぜんぜん綺麗じゃねぇ。こういう音楽を自らの生活に歓迎することをためらう人もいるのではないかと思います。ところで私は別に”日本などでヒットしてるポップミュージックのなじみ深いロック”なんてなくなればいいと思ってるわけではありません。でもそれだけじゃ面白くないという話です。多分この曲、文化祭とかでやったらひかれるでしょうね。10人中2人が笑い、4人が無視し、2人が顔をしかめ、1人が知ったかぶりをして、1人がすげぇって思うような曲です。マジ文化祭でやったら一種のテロですよ。「お前ら殴る代わりにこれ聴かせたル死ねぇぇぇええ!!」って感じの曲です。痙攣のようなビート、フリーなフレーズ、ノイズ、鬱屈した男の子の好きなものがいっぱい詰まってる。このコンピの中で一番激しいゴミです。

 

洗濯屋の犬

 そりすも

 

ノスタルジック。そして歌い方がバカっぽい。多分犬のレベルに合わせているのでしょう。優しさを感じます。吠えている犬は、まぁよその家の犬をこんな風に言うのはアレですけど、多分そんな賢い方ではないと思います。バカというよりは所帯じみてると言った方が正しいかもしれない。少なくともセレブが飼ってるような血統書付きの高級な犬ではないと思います。私もどちらかと言えば高級な人間ではないのでこういう空気感は覚えがあります。洗濯屋が逆にめっちゃセレブだったらウケるな。私事で恐縮ですが子供の頃にとても吠える犬を飼っていました。家に入れたら私の遊戯王カードを噛んで紙くずにするような犬でした。実はけっこういいとこの犬を貰ってきたはずなのですがなぜか凶暴に育ってしまったという、まぁ飼い主(私)の未来を見事に暗示していた犬でしたね。この曲でカチカチなってる音はカセットテープレコーダーを思わせます。私は中学生時分、ゴミ捨て場で拾ったテープレコーダーを水で洗って乾かし使っていたことがあります。それでテレビを録音したりオリジナルラジオテープを作っていました。そういう頭の悪い雰囲気が詰まっている曲です。まさにゴミ。

 

安直廃棄物

 とーず

 

名前の通り安直な構成の曲です。クラブミュージックなどの踊るための音楽もイージーな構成でお約束みたいなものはありますが、その場合強烈なビートをつけたり派手にしたりしています。しかしこの曲は地味です。いったいなにがしたいんだ?よくわからんけどこの曲は一人で勝手に進んでいきます。しかも勝手に盛り上がったりしてます。勝手に盛り上がるな。そして段々音が少なくなっていき終わります。なに勝手に帰っとんねんって話ですよ。まったく謎です。安直とはいいながらも実は割と凝ってるところもあります。延々同じ調子でリピートしてるわけではなくある時はベースを変えたりある時はシンバルを挟んだりといろいろやってます。でも絶滅的に地味です。なんなんだいったい。。。ディス・イズ・ゴミ。

 

笛のお姉さん

 rjnk feat. Maysys

 

笛のお姉さんであるMaysysはこの前はチンアナゴのお嬢さんでした。次はいったい何になるんでしょうか。狂人的サウンドの笛がトラックのメロウな雰囲気をぶち壊します。そんなことしちゃダメでしょ。トラックはトラックで、笛は笛でそれぞれ生きる場所が探せばどこかに必ずあるはずなのですが、今日のところはぶち混ぜられて終了という残念なボーイミーツガールの様相を呈しています。でもトラックの話に耳を貸せば笛も実はええ子なんかなとは思えます。まぁトラックがそういうんなら俺は別に反対したりとかせんわみたいなファミレスでそういう会話してる気分になります。席でトラックとこういう話をしてるなか、笛はドリンクバーを行ったり来たりしてジュース混ぜて作った変な飲みものを初対面の私に差し出します。本当にいいのかトラック?笑かすゴミです。

 

みえるけむりのなかで

 キヅミタ

 

作ったのは私です。この曲は「滅茶苦茶HAPPY劇場」というアルバムを作ったすぐ後に作ったのでした。だからでしょう「滅茶苦茶」のコンセプトが多分に引き継がれています。つまり布団に入って寝ながら聴くことを想定したのでした。サイケデリックということで変性意識に入るような曲にしようと思い、催眠音声をイメージして作りました。催眠音声というとエロいやつが多いのですが、私もエロいのを作ろうと思いました。個人的に「他人の幼少期の思い出話」はエロいと思ってるのでそういう歌詞になりました。息継ぎから突然鳴る強烈な音は頭を真っ白にさせる効果を狙ったものでした。後半のノイズは主に”巨大なものに組み込まれている”という迷子になった時の不安を表現しています。ただ怖い思いをさせたまま放り投げるのもよくないと思い、最後は”家に帰る”という一応安心できる終わり方にしました。このとおり私の曲は念入りに考え込まれて作られているのでゴミではありません。

 

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いろんなゴミがあって楽しいコンピでした。ツッコミながら聴くというのもゴミの楽しみ方の一つではないでしょうか。でもゴミなんだから深く考えなくていいのかもしれませんね。うまく乗せられてしまいました。

 

psychedelic trash vol.2もある予定です。

 

rjnk — Psychedelic Trash vol.2 やります

 

今度のコンピはコンセプトがあり「架空の映画のテーマ曲」というものです。私も参加させていただきます。ではまたよろしく。

二人でお料理作曲法 ver.1

二人で曲を作る方法を考えてました。作曲の技術をアウトソーシング(他の人に頼むこと)できればガチの素人でも曲が作れるようになって面白いのではないかと思います。しかしタダで他人の要望にホイホイ応えてくれるお人好しな作曲家はこの世に存在しません。(いたとしたらその人はあなたの体目当てな可能性があります)

なぜでしょうか?それは作業の負担が格段に違うからです。作曲というクソめんどくさい作業を全て他人の指示に従ってやらなきゃいけないなんて考えただけでも心臓が止まりそうです。それに比べて指示を出す方は比較的楽です。例えば私もテレビとか見たりして「ここはこうしたほうがいいのに」と思うことはよくあります。でもそこには知らない意図が隠されていたり、制作費などの都合上不可能だったりするかもしれないのです。実際に作業するうえでは思ったより制約があるものですが外からは分かりにくいのです。それに、一生懸命作ったものを外からああだこうだ言われたら作った人はもちろん面白くない。「友情から始まった共同制作企画の結果は苦いお別れ」という悲劇にもなりかねません。

だからまずはこの負担のズレを是正する必要があります。一番簡単な解決法は指示出し役が適切な額のお金を払えばいいのですけどそれでは単なる依頼作曲になります。なんだか面白くない。二人が同等の関係であるにはどうすればいいか。あるいは同等でなくとも作業が多くの場合円滑に進むシステムはないか。

 

ここで登場人物、二人の役割を決めておきます。

 ・作曲家役「指示出し役の指示を受けて作曲する」

 ・指示出し役「作曲家役に指示を出して作曲の方向性を決める」

 

ここで指示出し役として想定しているのは「BPMをもっと早く」などと具体的な指示を出すことができない、BPMという言葉を知らないガチの素人をも想定しています。(作曲家役は特にレベルを想定していません。

 

作業の流れ

・まず指示出し役が指示を出す

・作曲家役が指示を受けてなんらかの曲を作る

・指示出し役は曲を聴いてさらに修正の指示を出す

・作曲家役はその指示を受けて曲を修正する

・それの繰り返し

 

これが基本的な流れです。細かいところは置いといて、まず終わる方法を決めておきましょう。

 

終わる方法

・どちらかが「作曲の終了」を宣言したら終了。

・どちらかの連絡が一週間なければ強制的に終了。(「仕事や学校が忙しかった」などいかなる理由でも強制的に終了)

・(指示→曲の提出)を1セットとして、10セット繰り返せば強制的に終了。

・どちらかがルールを破った場合、終了。

 

さて、それでは次に出来た曲の権利について決めましょう。(権利とかいちいちめんどくせぇ、自分らで勝手に決めるよって人は読み飛ばしてください。*で囲んだ部分が権利についての話です)

 

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曲の権利

・作曲家の権利

  曲に作曲家として名前がクレジットされる権利

  保存しておく権利(手元に置いてある曲を削除しろと相手に言われても削除する必要はない)

  指示出し役より多くの利益を得る権利(利益が発生した場合、取り分は常に作曲家の方が多いものとします。デフォルトでは作曲家8:指示出し役2。しかし、このルールは法律的拘束力がないと思われるので、ガチの不服なら民事裁判で決まるでしょう)

 

・指示出し役

   曲に原案として名前がクレジットされる権利

  保存しておく権利

  曲から利益を得る権利

 

次に、出来た曲を同人マーケットなどに出品、あるいはインターネット上に投稿する際の権利・ルールについても決めておきます。

 

曲の発表の権利・ルール

*基本的には曲の状態(発表されている、発表されていない)を決める権利は双方とも同じだけ持っている。

 ・曲を発表するには双方の同意が必要である。どちらか一方の一存では発表することが出来ない。

 ・発表された曲の指し止め・削除はどちらか一方の一存で決めることができる。作曲家役も指示出し役も発表された曲をいつでも差し止め・削除する権利がある。

 ・双方とも曲が発表されたこと、また、差し止め・削除されたことを知る権利がある。

 ・発表した曲がサンプリングによる著作権侵害などで訴えられた場合、その賠償は作曲家役が9割行う。指示出し役は1割負担。ただし、指示出し役も曲が著作権違反に該当する事実を知っていてなお発表した場合は、負担は折半になる。(しかし、これらのルールは法律的な拘束力はないと思うので、ガチで争う時は民事裁判で決まるでしょう)

 

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では次は実際の細かいルールです。いったいどういうやり取りで二人は曲を作るのか、その方法について述べていきましょう。

 

まず指示の出し方です。

 ・指示出し役は最初に食材の名前を言います。「りんご」とか「バナナ」とか「牛肉」とかです。だいたい3~5個くらいが良いでしょう。

 ・作曲家役はその並べられた食材からイメージした音楽を作ります。

 ・指示出し役が次に与えられる指示は「調味料」と「量」だけです。例えば「砂糖30g」とか、「ターメリック60g」とかです。複数の調味料を支持することもできますが、2~3個くらいまでが良いかもしれません。

 ・指示出し役は最初の食材と、その後の調味料以外一言も言葉を発してはいけません。他に言える言葉は「もうやめます」だけです。

 ・作曲家役は指示出し役に音楽以外送ってはいけません。言える言葉は「もうやめます」だけです。

 ・双方は作業が終わるまで、外でその作業についてあまり言及しない方が良いです。

 ・作業が終了になれば、最後に指示出し役が出来た音楽に名前を付けて(例えば「ドス黒いカレー」など)、それで「二人でお料理作曲法」は完全に終わりです。

 

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データの受け渡しについて。

 googleのサービスを使えば、捨て垢でも作ってgmailgoogleドライブなどを使ってデータのやりとりができると思います。

 

実際にやってみたら、なにか悪いことが起こるかもしれません。これについては今後も考えていきます。

二人でお料理作曲法、興味があったら誰かとやってみてください。

歌詞について

歌詞について考えたことをまとめてみます。良い歌詞とはどんなものか?哲学的で深遠な学説を披露しても「じゃあテメーの書いた歌詞はどうなんだよ?」って言われたらアウトですし、哲学的で深遠な学説を披露できるほどモノを知っているわけではないので、自分が普段どんな姿勢で歌詞を書いているかをここでは中心に据えたいと思います。自分語りも出来て一石二鳥!

 

「歌詞」は「詩」と似たようなものですけど、曲に乗ってるところが違います。でも私はその違いをあまり意識してません。そもそもこれ言ったらこっから先読む気なくなるかもしれませんが、実は私はあんまり詩とか分からないんです。今まであんまり読んでこなかった。

メロディに乗せられた歌詞もあればほとんど喋ってるのと変わらないような歌詞もあります。歌謡曲ポエトリーリーディングなど音楽にはいろいろなものがあります。

歌詞のメロディの乗せ方。歌詞をいったいどう歌うか?これに関してはほとんど考えてません。感覚で判断してその時その時でボーカロイドに打ち込んでいます。フローや譜割りとかもあんまり考えてません。歌いやすいように歌わせています。これじゃテキトーの誹りを受けるかもしれないな。

とにかく私は「歌詞」と「詩」の違いをあまり意識してません。やっぱり意識したほうがいいのでしょうけどね。今後の課題です。

 

次に自分の歌詞についての姿勢。私は自分の歌詞を曲の二の次だと思っています。勝負してるところはあくまで曲の方であり、たとえ自分の歌詞が巧かろうがマズかろうがそんなものはラーメン屋の唐揚げみたいなものです。でももちろん、マズいのはよくないですね。

二の次なので手を抜いてるかと言えば場合によっては曲作りのあれこれよりも手の込んだことをしてることがあります。これは私が言葉を操作することが得意…というか比較的そればっかりやってきたので、ついつい手の込んだことになりがちなのです。イラストで目を描く練習ばっかりしてきたので顔を描いたら目だけやけに描きこまれてるやんけ!って感じでしょうか。

とにかく私の姿勢は曲が一番大事なんです。曲っていうのはつまり耳で聴くものです。たとえばあなたが日本語が分からない外国人だったとしても「歌詞の意味わからんけどこの音楽はなんかなんかだよな」と思ってもらえるかどうかがキモなのです。

だから私は曲(というかほとんどワンループのトラック)をまず先に作ってます。歌詞を最初に作ることはほとんどありません。

「だから」と言いましたが、歌詞を先に作るからと言って音楽の方を向いてないというわけではないと思います。そもそも音楽の方を向いてるとは?うーん。音楽についてもいろいろ思うことはあるのですが長くなるのでまたいつか別の機会に。

 

以上が私の歌詞についての姿勢です。それでは「私が良い歌詞にするためにやっていること」について語っていきます。

 

まず歌詞のテーマですけど、これは別にどうでもいい派です。私にも嫌いなものはありますけど、違和感がなければ寿司ネタを延々羅列しただけとかでもアリだと思います。マグロ・イカ・アボカド!みたいな感じで。

目的によってまた場合が変わってきますからねー。いったいなんの意味があるのか、あるいは意味がないのか。その目的・意味に沿っていればひとまず成功した歌詞と言えるでしょう。

しかし、ぶっちゃけ最初から目的や意味を自覚していることは私の場合少ないです。目の見えない豚が鼻を頼りに歩き回るみたいに作っています。だから投稿した後で「あ、これはああいう意味だったのか」と自分で分かることも多いです。どないやねんって話ですけどね。でも覚めた自分の考えをあんまり信用してない、というか「作為」というものに対してムカつくことがよくあるので、私はこういう作り方をします。考えて作るより考えないで作った方がいいというのはクリエイターとしての一つの敗北だろうとは思いますけど。まあでも自分の無意識は全部分かってると思いますよ。こんな作り方でも後から見直すと割とうまくできてたりするので。偶然頼み、しかし偶然は無意識の計算、なんてね。

テーマを最初から分かってることは少ないんですけど、だいたい結果的には「ちっぽけでしょうもない僕」みたいな感じになります。あまりにしょうもなさすぎてもういいかげんやめたいんですけど残念ながら私はこれくらいしか持ってないんですよね。頼れる無意識さんもさすがにこれしか用意してくれない。

「ちっぽけでしょうもない自分」これは良いテーマかというと、よくわからない。とりあえずこの他にどんなテーマが考えられるか、箇条書きで思いつくままに例をあげてみましょう。

・自然について「月が綺麗!海が広い!など」

・宗教について「神よありがとう!神は俺たちを見てくれる!など」

・感覚について「夢かわいい!宇宙のエナジー!など」

・愛について「君のこと大好き!お母さん大好き!など」

・社会について「政治家死ね!国家死ね!など」

・言葉について「文字落としやアナグラムなど」

だいたいこんな感じかと思います。他にもあるかな?

これはばっちり分かれてるわけではなくて、一つの歌詞でも自然賛美と宗教賛美が混じったり、宗教賛美と政治賛美が混じったりしていろいろな色合いになっています。

このどれがいいテーマでしょうか?どれも人によって違うとしか言いようがない気もしますね。

とにかく私にとって今現在一番大事なのは「何にも代えがたき特別な私」なので「自然ありがとう!」言われても「おう、そうかい」としか思わないし「想像力で宇宙を描く!」みたいなやつも「おう、そうかい」としか思わなかったりするのです。社畜の人は労働問題に関心を寄せるし、恋をしたら恋愛に関する話が普段より耳に入るようになりますからね。私はけっこう自分の曲を自分で繰り返し聴いたりするんですけど、やっぱりそういうことなんでしょうかね。。。

なんかもう良い悪いの基準がほぼ感覚的な話になってきて、それは「お前ん中ではな」の一言で論破されるんでダメなんですけど、ああ~まだ私はレベルが低いなぁ。頑張ります。

 

次は細かい話。

良い歌詞にするために私に何ができるかというとフワッとした感覚の判断くらいです。感覚的なものだからこれは説明がかなり難しい。ぶっちゃけテキトーと言われても何も言い返せないかもしれない。とりあえず書いてみて、細かい部分ずつ読んで引っかかるところはないか判断をしていきます。ちょっと出っ張ったところを平らにならしてみたり、違うと思った言葉を別の言葉と取り換えてみたり。だいたいそういう作業をフワッとした感覚でやっています。なんでこの言葉にしたの?って言われたら、まぁそれなりに説明できるでしょうけど、でも「思いつく他のどれよりこの方がいいと個人的に思った」というのがおおもとの理由になります。

歌詞の一連のリズムと、言葉の適切さが主な判断の対象になります。文章にもリズムはあります。言いやすさ・読みやすさと言って差し支えないと思います。それは何も俳句やソネットのような詩の形式の話ではなく、音韻や区切りなどの要素が細かく集積されたものだと思います。文章のリズムの巧さ。これは持って生まれたものだと村上春樹は言ってました。ある程度は訓練できるとは思いますが、やっぱり私も持って生まれたものだと思います。もしかしたら自分の心臓の拍の速さなんかも関係してるかもしれない。とにかく口で教えてできるようになるものではない…かな?

言葉の適切さというのも個人的な感覚です。私は言葉にはその人なりのカテゴリーというものがあると思います。単純な例で言えば日常会話で急にヤクザ用語を出すのはおかしい。言い方の問題ですね。変な言い方の感覚です。例を出してもっと説明します。こんな文章を考えました。「盲目の太陽が死すれば、神を滅ぼす獣が解き放たれる」この文章に特に意味は考えて無いんですけど、これが「盲目の太陽が死ねば、神を滅する獣が解き放たれる」だったらどうでしょうか。「死すれば」が「死ねば」に、「滅ぼす」が「滅する」になっています。果たしてどっちがいいのか?私の感覚では最初の方がいいと思います。どうして?と言われても個人的な感覚なのですから究極的には説明できませんが、それでも敢えて説明をしてみます。「死すれば」というのは「死ねば」よりも死を他人事のように見ている気がするのです。「死する」と「死ぬ」では、「死ぬ」の方が身近な言葉づかいなのでそう思うのかもしれません。「する」という動詞(?)で死を名詞的に使ってるのかな?多分そうですね。とにかく「死」があってそれを「する」。「盲目の太陽」なんてわけのわからないものの「死」をあくまで遠いところから眺めてるような気がします。逆に「滅する」というのは単純になんか変です。「死する」も変じゃないか!という人もいるかもしれないし、「滅する」は変じゃないよ!っていう人もいるかもしれないけど、これはもう個人的な感覚ですね。なんていうか「滅する」は中二病的な言い方の気がするんです。いや、元の文章自体めちゃくちゃ中二病やんけ言われたらその通りなんですけど。うーん。「妖怪を滅する」というのには使えると思うんですけど、「神を滅する」というのはちょっとおかしい。たぶんこの場合の神というのが「滅ぼされて欲しくない存在」で「高貴な存在」だからこそ、「滅ぶ」と普通に言った方がいいんじゃないか。「滅する」はなんだかチンケな存在が跡形もなく消されてしまうようなイメージです。例えば神という言葉でも、「ある土地に古くから住みついていた悪しき因習のような存在」だったら「神を滅する」という言葉も使えると思います。

というのが、だいたいの説明ですね。

 

もちろん私は歌詞を書きながらこんなことをいちいち考えてるわけではありません。考えてたらすごいです。私には根性がないんですねぇ。でもいつかやってみたいな。脱線しましたが「盲目の太陽うんぬん」はアドリブで今でっちあげたものです。まず書いてみて、推敲を重ねることで適切な言葉を選びました。これが一日明けてまた見返すと印象が変わっていたりするんで大変ですね。いやしかし無意識は本当にすごいですなぁ。考えなくてもフワッとした感覚で良い悪いを教えてくれるんですからね。でもこんなことやってたらいつかなんらかの罰が当たりそうな気もしますけどね。

 

とりあえずここらへんにしときます。 

分からないことだらけです。まだまだ考えていろいろ調べたらまたいつか書こうと思います。 

以上です。

音楽のフォーマットについて

フォーマット(音楽の保存形式)は音楽に影響を与えます。考えたことを述べていきます。

 

まずジョン・ケージ4分33秒から話を始めます。

4分33秒というのは4分33秒間を3つの楽章に自由に分け、その間何も音を発さずに環境音(演奏される場所がコンサートホールであれば、空調のうねりや人々のざわめき、あるいは自分の心音など)に耳を澄ませるというコンセプトであるらしいです。

ここで注目するのは時間です。ケージは演奏者に時間を厳密に管理することを指示しました。多分それは、全楽章休止だからです。それまでの音楽は時間の指定を音符や休符でしていました。しかし、4分33秒にはそもそも音符も休符もないので、物理的な時間を指定するほかなかったのだと思います。これは楽譜というもののフォーマットと関わっています。

 

遠い昔に録音技術などありませんでした。そして人類は音楽を紙に書いて保存する方法を編み出しました。しかし、楽譜は最初から完成していたわけではありませんでした。西洋音楽の長い歴史の中で少しずつ発展して今の形になったものです。

さて、あるものを記録するには抽象化が必要です。ここで言う抽象化とは音楽の要素を抜き出すことです。では音楽とはいったいどういうものなのでしょうか?

音楽には時間の流れと音の高さという要素があります。ということは、時間の流れと音の高さを記録できれば、その記録から音楽を再生することが可能になるのではないでしょうか。そういうなんやかんやで時間の流れと音の高さを上下左右の二次元の座標で表したものが楽譜となりました。

しかし楽譜に書かれている情報はそれだけではありません。つまり、音楽の構成要素はそれだけではないということです。他に何があるでしょうか?

音楽には拍子があります(拍子がほぼ無い音楽もありますが、ここでは拍子がある音楽の話をします。お察しください)。拍子というのは時間の区切り方です。要は時間の流れのことなのですが、漠然と横に広がる時間よりも、もっと音楽的で特殊な時間の流れです。うーん、分かり難いなぁ。

拍子は音楽を構成する単位のようなものです。たとえば三拍子ならばトントントンの拍子で音楽が進行していきます。トントントン・トントントン・トントントン…、このひとかたまりの「トントントン」を組み立てていって音楽が作られるのです。いろんな音によって出来た「トントントン」を積み上げて行って音楽が作られるのです。それはまるでレンガを積み上げて家を作るようなものです。

 

(もしも拍子がなく、漠然と横に広がる時間の流れしかなければ音楽はどういうことになるでしょうか?先ほどのレンガの比喩でいけば、そこにあるのはレンガ以前の泥のようなものです。流動的な泥で作られた音楽。なんかガンジス河みたいで雄大ですね。そういう音楽のジャンルの一つにノイズがあります。また、日本の伝統音楽なんかもよく拍子がおざなりになったりします。西洋音楽にとって拍子(リズム)は音楽の構成単位なのでおざなりでは困りますが、日本の伝統音楽にとって拍子なんてもんはアバウトなもんでいいらしいのです。はぁ~よいよい)

 

寄り道しましたが楽譜の話に戻ると、楽譜はちゃーんと拍子を表すことができるようになってます。まず最初に3拍子なら3拍子、4拍子なら4拍子と指定して、小節という概念で時間の流れを分割するのです。

 

西洋音楽の伝統に反抗した奇天烈な人にエリック・サティという人がいます。この人の書いた楽譜には小節線のないものがたくさんあります。アバウト過ぎる~!いったい何考えてんの~???)

 

他にも楽譜で表せるものはあります。調とか速度とかです。

速度は時間の流れの一要素ですが、調は音の高さの一要素です。

調の後ろには調性というものがあります。調性というのは西洋音楽の根幹です。調性は音楽の偉大なるルールのことです。噛みしめれば噛みしめるほどに敬虔な念を抱いちゃいます。

うーん。実はあんまり詳しくないので自信はないのですが、調性ってのは文法みたいなものなのかなと思います。

例えば「I love you」という一文がありますね。英語の文法に則って書かれています。これが「You love I」とか「Love I you」では意味の通じない間違った文になりますね。ざっくり言ってこの「正しい/間違ってる」を判定する文章のルールが「文法」というものではないでしょうか?

すれば音楽にも「正しい/間違ってる」ということがあることになります。音楽の間違いということでまず思い浮かぶのは不協和音です。例えばドとソを同時に鳴らせば綺麗な響きが得られます。「本当に2つ鳴ってんかよこれ~?」ていうぐらい、「もうお前ら付き合っちゃえよ~」ってレベルの響きです。しかしファとシの場合は違います。「この二人は一緒に仕事させちゃいけない」みたいな響きです。ファがいる喫煙所にシが入ってきたら場が一瞬で凍り付きます。(もっとも、その凍り付いた空気を音楽に利用することもあります)

え~?でも音楽って自由だからいいんじゃないの~?ってなわけですけど、それは思想の問題なのでなんとも言えませんね。ただ、世の中には小さいころからこういう「正しい/間違い」を徹底的に教え込まれて、間違ってるものはどうしても受け付けられないという耳をお持ちの人もいると思います。そういう人にとってノイズまみれの現代音楽など、これはもう悪夢でしょう。自分にとって喜ぶべき自由が誰かを脅かす可能性があるという。。。おっと、この話はもうやめましょう。

とにかく、音楽には調性というものがあって、楽曲には調というものがあります。もちろんないのもあります。無調音楽です。「コラ!!毎度毎度有ると言った舌の根も乾かぬうちに無いものもあるとか!!どないやねん!!」という話ですが、常識は覆されるものなのです。。。

楽譜において調は調号で表します。シャープやフラットの塊を最初に書くことで表します。その理屈をここで説明するのはめんどくさいのでやりません。とりあえず、これまで見てきたように楽譜は音楽のいろいろな要素を表せるように発展してきたという話ですね。

 

考えてみれば音楽の時間と現実の時間はちょっと違うんですね~。音楽の時間は拍子によって区切られていることは話しましたが、その拍子の長さはその時その時の演奏によって伸びたり縮んだりするわけですね。そもそも演奏というのはだいたい人間がやってきたわけですから、「1小節はぴったり3秒で区切るように」みたいなこと言われてもそんなきっちり区切れるほどの技術を持った人なんてロボットでもあるまいし、なかなかいません。

だいたい偏屈じゃないですか?「1小節はぴったり3秒!早すぎても遅すぎても失敗!」ってわざわざ指定する作曲家なんかきっと嫌われますよ。まぁ、ジョン・ケージ4分33秒ぴったり指定したわけですけどね。きっと偏屈な人だったんですかね。

拍子という音楽的な時間から物理的な現実の時間に移行したこの作品ですが、その理由は先ほども言ったようにそもそも音符や休符がなかったこと、、、と私は予想しつつそれで音楽がどうなったかということに話を進めていきます。

なぜ物理的な時間を指定したか?もう一つの大切な理由は「音楽のコントロール」ということだと思います。例えばこれが「3楽章に渡り無音、奏者は時間をアバウトに決めて心の赴くままに始め、そして終わる」という作品であれば、そのコンセプトは大きく変わったものになったと思います。それはなんだか日本的な「つれづれなるままに…」という趣をかんじますね。

しかし、ケージは時間を厳密に区切りました。これってまさしく西洋的!すごく客観的じゃないですか?拍子というものが演奏者において主観的なものであれば、物理的な時間は我々人間が唯一共有する客観的な時間です。(アインシュタインがそれは違うよって人類に教えてくれましたがここでは無視!無視!)

音楽の外部にある物理的時間を厳密に指定することで!?音楽を最低限コントロールするというケージ渾身のエクスペリメンタルな一曲!!アツい!!噛みしめれば噛みしめるほどにアツい気持ちになります!!

そのアツい一曲をケージはなんと楽譜というフォーマットで発表しました。なぜでしょう?あまりにコンセプチュアルな音楽だから文章でも十分に説明できます。それに、あえて4分33秒を3楽章に分ける意図も謎です。

これにはきっと何かちゃんとした意味があるのでしょう。そしてそれは楽譜というフォーマットと深く関わっていると思います。

うーん。実は私、ケージについていろいろ調べたわけではないんです。ただ単に4分33秒を題材にいろいろ妄想して、それをこの記事に書いてるんです。ここまで書いたことは全部私の妄想かもしれません。

ですが、妄想を続ければ、4分33秒という楽曲が楽譜によって書かれた意味はこういうことだと思います。

 

*************(妄想)************

ケージの中には「音楽=楽譜」という等式が成立していたのではないでしょうか?

楽譜こそが音楽であるだなんて、なんだかとってもプラグマティック!実にアメリカンな割り切りですね。

音楽の実態は何でしょう?物理的な空気振動でしょうか?しかし空気振動はすぐに消えてしまいます。消えないようにその現象を何かで記録しなければなりません。そして保存の必要性から楽譜が生まれました。そして、その楽譜がこそが音楽の実態であるという考え方。倒錯だぁ。。。ドキドキしますね。

ほっ!4分33秒で、ケージは音楽というシステムそのものを見据えていた。音楽というシステムの外部(物理的時間、環境音)を導入することで音楽の新しい姿を提示した。

ケージは4分33秒を3楽章に分けた。そしてその楽章を演奏者の自由に分割させた。だがしかし!!4分33秒という時間はきっちり守らなければならない。たった1秒、過ぎてはダメだし、早くてもダメ。従来の音楽では考えられないほどの自由でありながらも、最後の一線は、厳密なルールによって、支 配 さ れ て い る 。

倒錯だぁ。。。SM的バイブスを感じるぜ。。。

そしてそれは楽譜というフォーマットで書かれている。従来の方法で、従来の音楽をひっくり返している。非常にコンセプチュアルな音楽を、楽譜という「音楽の現身」で発表する。音楽の現身!そうすることで、支配のルールをよりくっきりと浮かび上がらせる。縄で縛られた音楽の肢体を浮かび上がらせるのだ!!

(ケージがSMやる変態だという話は聞いたことないので、これは全部私の妄想です。ぽかぽか)

 

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フォーマットを擬人的倒錯的に見るという視点を提示しました(これが何の役に立つか分かりませんが)。

さて、フォーマットの話を続けます。

 

楽譜が誕生する前から音楽を伝えるフォーマットが他にもあります。音楽の演奏などを実際にやってみたり、口で伝えたりして仲間や弟子などに教えるという方法です。それが学術的になんと呼ばれているか知らないのですが、ここでは私が名前を付けて「伝承」と言うことにします。

楽譜と伝承はまた違うものです。楽譜は人から紙というメディア(情報を伝える仲立ち)を経て人に伝わるもので、伝承は人から人へ直に伝わるものです。

楽譜は一度書かれたらある程度の確定性が生じますが、伝承はその過程で伝えられるものの変形がしばしば起こります。そして民族音楽などはそのようにして発展していくものだと思います。伝承というフォーマットの良い点はこのように豊かに発展する余地のあることです。悪い点は主観的であり古いものがどんどん消えていくことです。

楽譜は客観的に分析でき記録を保持できますが、伝承よりは豊かさが失われています。

フォーマットというのはこのようにいい面もあれば悪い面もあります。人類はどちらか一方だけではなくそれぞれの良いところを掛け合わせ悪いところを補う形で音楽を連綿と伝えてきました。感動しますね。

 

フォーマットとはメディアとともにあります。紙が発明され楽譜が書かれるようになりました(その前は石板に書いてたりしたのかな?)。

そしてお待ちかね!人類は一生懸命発展してレコードやテープやCDが発明されました。(他にもソノシートやMDやレーザーディスクなんてものもあります)

それらメディアのフォーマットはいろいろあります。これら新しいメディアは一枚岩ではなくレコードなどはアナログ、CDなどはデジタルと言って区別されたりします。

 

アナログのことは知りませんが、デジタルのフォーマットはWAVやmp3が有名です。デジタルというのは0と1の情報がどうたらこうたらでうんたらかんたらです。詳しく説明するとボロが出るのでやりません。しかしややこしいですね。「デジタルのフォーマットって何やねん?デジタルはCDじゃないんかえ?」とかね。うーん、違うけど説明がめんどくさいな。まぁ、いろいろ発明されたおかげで便利になったけど世界は確実にややこしくなったというわけですね。

私が注目するのはこれら新しいメディアの誕生のおかげで新しい技術がいろいろと必要になったということです。

その技術は「録音」、「ミックス」、「マスタリング」です。

録音はなんとなく分かるとして、ミックスとマスタリングとは何なのでしょうか?

一言で説明すれば、ミックスはいろんな音源を混ぜ合わせて一つの音源にする作業です。そしてマスタリングはミックスして出来た一つの音源を最終的にいろいろ調整する作業です。

なんでそんな難しそうなことをしなきゃいけないのかというと、そういう作業をしないとWAVやmp3という新しいフォーマットとして世に出せない仕組みになってるのです。宿命的にそうなっているのです。人間という愚かな生き物が「今日より明日はもっと幸せになろう」と一生懸命頑張って一つ一つ壁を乗り越えていっても、すぐにまた新しい壁が出てくるのです。人類はそういうことをこの地球上に誕生した瞬間からずっとやってきたのです。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、いや先祖のみならず、今まで存在してきた人間みんなそうなのです。なんて不毛なんでしょう。私たちはこの不毛なレースから抜け出すことが出来ないのです。

 

ところで、現代の音楽を取り巻く状況はとても面白いことになっています。インターネットの発達によって世界中のいろんな人、プロとアマチュアが入り混じったたくさんの人の音楽を知ることが出来るようになりました。また、逆に自分の作った音楽をサウンドクラウドニコニコ動画など、インターネット上のサービスを利用し全世界に発信できるようにもなりました。

ネット上で流通する音楽の主流フォーマットは、ミックスやマスタリングという技術が必要なWAVやmp3です。

過去、楽譜がメディアの主流だった時代には録音やミックスやマスタリングの技術を習得する必要がありませんでした。その代わり楽譜を書くには楽典という知識が必要でした。また、楽譜は音楽と密接に結びついているので、和声学や対位法などの音楽理論の勉強も必要でした。(もちろんそんなものなくても音楽はできます、それがいつの時代で、人が住めるどこでも、そこに人間がいる限り)

伝承の時代の音楽にいったい何が必要だったのでしょうか?それは音楽とは直接関係のない人間に対する気持ちのあれこれだったりしたかもしれません。

 

今はパソコンとソフトさえあれば一人で音楽を作り、なおかつそれを全世界に発信できます。ありていに言って、音楽理論は昔ほど必要にならなくなったのではないでしょうか。

音楽理論が昔ほど必要でないというのはどういうことでしょうか。ひとつ言えるのはドビュッシーがピアノやオーケストラで表現しようとした揺らぎを「リバーブ」や「ディレイ」というエフェクター(音源を変化させるもの)で表現したり、拍子という時間の積み重ね方を「サンプリング」という手法でより直観的にできるようになったのではないかということです。

つまり、理論に頼らなければできないことを、発展した技術が ”理論素人でもできるようにした” のではないでしょうか。

そして音楽が伝承という形でコミュニティの中でゆっくりと発展した、その速度を超えて、個人の音楽がインターネットに乗って世界中に伝播し相互に影響を与えています。

ああ、なんて世の中でしょう。

楽譜の時代に必要だった理論。それが今では、録音、ミックス、マスタリングなどの新しい技術にとってかわられてしまったのかもしれない。(だが、世界にはまだ伝承の音楽があり、楽譜の音楽があります。それらはこれからも脈々と受け継がれていくことでしょう)

 

(私の妄想の話ですが)ジョン・ケージ4分33秒で楽譜というフォーマットをヒーヒー言わせました。

それでは現代、いったい誰がWAVやmp3というフォーマットをヒーヒー言わせるのでしょうか?

楽しみですね。

チンアナゴLP Garden

stripeless.bandcamp.com

 

チンアナゴという変な生き物がいまして、それをテーマにしたボーカロイド・コンピレーションアルバムがあります。その名もチンアナゴLP。

このコンピレーション・アルバムは45曲もの楽曲が収録されており、あまりにも多いので3枚に分けられています。「Garden」「Aqua Gallery」「Kaleidoscope」ジャケットもそれぞれ違った絵師が担当しています。他に進行役なども入れて、総勢約50人もの人たちが制作に携わり出来たものです。

キーワードは「チンアナ感」。チンアナ感があることが、このコンピに参加できる絶対条件でした。

しかし、この「チンアナ感」という謎の概念はいったいどういう意味なのでしょうか。

このアルバムの制作に携わった約50人の人たちはチンアナ感を最初から分かっていて、このコンピレーション・アルバムに臨んだのでしょうか。

それは多分違うと思います。ほとんどの人はチンアナ感がなんなのか、はじめは分かっていなかったと思います。

そんな中で、チンアナ感について各自が考えながら手探りで作りあげたもの、それがこの三枚のコンピレーションアルバムだと思います。

主催者のMaysysの楽曲「This is my チンアナ感」このタイトルは、「私が個人的にチンアナ感について考えた末に出来上がったものがこの曲だ」という意味だと思います。

チンアナ感とは、このように画一的なものではありません。人それぞれのチンアナ感があるようです。だから、それぞれの楽曲には様々な個性があります。しかし個性的ではあっても統一感を欠くものではありません。チンアナ感の解釈に個性はあるものの、表現されたものはやはりチンアナ感なのです。統一されていて当然です。そしてそれこそが、コンピレーションアルバムというものだと思います。

聴く前に、そもそもチンアナ感が何なのかわからない。それは当然のことです。このアルバムには一種の謎解きの楽しみもあります。最初から分かっていてもつまらない。

そもそもチンアナゴを知らないという人は、まずチンアナゴの動画なり画像なりを見るか、あるいは実際に新江の島水族館に行って生のチンアナゴを見るなりして、このアルバムを聴くとよいでしょう。

もしかしたら、あなたがチンアナゴに感じた感情と同じものを誰かの曲で感じることができるかもしれません。その人を知らなかったら、調べてみて、その人が作った他の曲も聴いてみると、ぴったりハマることもあるかもしれません。あなたとその人は、同じチンアナ感を共有してるかもしれないのだから。

 

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というのが、前置きです。長くなってしまいました。本題はここからです。

今からこのチンアナゴLPに収録された全曲の感想を1曲ずつ述べていきます。

 

まずはGardenからです。このアルバムの大まかな説明をしましょう。

まずジャケットを見てください。都会的な格好をした女性がスマホを持って立っている。その前景にチンアナゴと熱帯魚が泳ぐ水中。中川一のさわやかなイラスト。三枚の中で、一番熱を感じるのがこのアルバムです。さながら夏の太陽に温められた海の、白い海底に顔を出す無数のチンアナゴのような曲が収められています。

 

「chinanago mode」 room

一番はじめの曲。 チンアナゴ状態。

パーカッションの質感が良い。そして4つ打ちを止めて、ピアノで引き延ばされた余韻。

4つ打ちを使っていますが、シンセの甲高いサウンドではなく、だいぶ落ち着きのある曲です。まるで自分の心臓の音のような4つ打ち

秘密の言葉のように繰り返される「チンアナゴモード」、言葉はゆっくりと温められて、ほどけていく。そしてサックスが挿入される。まるでチンアナゴたちが海底の白い砂からどんどん顔を出してくるみたいに、音楽が展開していく。エレガントです。

 

「熱帯とユートピア」 ボサツ

快感の鍵穴に何度もインサートしてくるような曲。繰り返しがすごく心地いい。

個人的にかなり好きなファンクです!しかし、ファンキーながらもボーカルの声質は不思議な傷ついた少年のような声です。

この曲には、孤独だけど、決意のようなものを感じます。孤独だと感じるのは、多分その決意の力強さにあるのだと思います。「価値があるんだ」と表明することの強さ。

月並みな言い方をすれば、すごく元気が出る曲です。

 

「ブラックチンアナゴを探せ!」 rjnk

湿度の高い空気みたいなギター、ジャングルの巨大ナメクジみたいなのぶとい単音シンセ、迷子のような声のボーカル。同じところをぐるぐる回る感じ。

さまざまなパーカッションによって展開していきます。走ったり止まったりのノリ。それでも巨大ナメクジは気にせずノロノロ動く。

リズムが一転し、拍子が変わる二層構造。その時はいっしゅん霧が晴れたような気がしますが、どこかにたどり着けたわけでもなく、さらに深いジャングルの奥に迷い込んでいきます。

いろいろなものが見つかるけど、お目当てはなかなか見つからない。そこでタイムオーバー。目覚まし時計のアラームで、夢から引き戻されます。

 

チンアナゴの水中」 みみみエナ

ファンキーなオルガンとスラップベース。裁断された音を並べて構成しているようです。音が上下左右に跳ね、大きく振り回される。そのドライブ感がここちいい。まるでチンアナゴたちの体操。

逆再生をも駆使して、引き延ばしたり縮めたり。痙攣のように繰り返される言葉。同じ瞬間を何度も体験するかのような、超時間的感覚。やったことはないけどもしかしたら幻覚作用のあるドラッグのトリップはこんな感じなのかもしれない。

しかし、あくまでリズムはキープされている。カオスのようでグルーブはちゃんとある。だからこそ、それに身を任せられるのです。

 

ana_go_to_juk」 緊急ゆるポート

リズムをジャストのタイミングからずらすことで独特のノリを作っています。声ネタのボーカロイドがおそらく英語ライブラリで、鼻にかかった揺れ揺れの発音。さまざまな音が混然一体となって展開していく。音が増え、リズムが複雑になったところで、一度クールダウン。そして再び展開していくリズム。ある部分は引き延ばされ、ある部分は縮められている、カオスの再燃。

そして突然現れる、エンディングへの疾走感。リズムがすっきりとして、声もメロディを獲得しました。我々になじみの深いポップミュージックのノリです。すべてがうまくいったような安心感と、なぜだか寂しい感じ。胸がドキドキします。

 

「君を待ってる」 Maysys & Atow

砂浜に座り、海に反射する太陽を眺めながら待つ。遠くから聞こえてくる声。内省的なビート。今は海底に沈んでしまった古代の都市のような雰囲気。しばし物思いに心をたゆたわせていると、右から聞こえてくる機械的なうねり。オーパーツの機械の鳥が出土。

時間が経てば状況も変わってくる。ビートが早口になる。オーパーツの鳥は今は空高くに飛び立ち、さえずりが耳から離れていく。何かが起こる前兆。待っていた人が遠くに見えた。心がはやる。

邂逅。会えば会ったでなんだか照れる。時間は再びゆっくりと流れだす。たった今、確認できたことが歌になる。

 

チンアナゴだよ」 ヤヅキ(激おこP)

チンチン!チンチン!チンチン!チンチン!チンチン!チンチン!チンアナゴ

難しい理屈はいらない!スネアのヌケがイイねとか、リズムの変化が凝ってるねとか、ギターのカッティングがいいねとか、そういうことはいろいろ言えるけど、そんなことよりもまず一聴、いさぎよく気持ちいい曲です。

この記事で俺はガーデンに収録された様々な曲を聴いて思い浮かんだ情景を書いてきました。しかし、この曲は情景なんて拒否してる。今ここに鳴った音こそ本物!

青春?違います、今です!

 

「つながってるとしたら?」 コウテイ

スライドギターでしょうか、かなりブルージーです。 レモンを絞るようなスクイーズ。音の立ち上がりがゆっくりなオルガンとクラリネット(?)の伴奏でさらにブルースの香りが出てます。

全体的にカッチリとした堅い雰囲気ではなく、かなり気怠い感じですが、しかしながら緻密に構成されています。安易な展開を意図的に避けている。だけど緻密な構成ながら、遊びもけっこう混じってるのかもしれません。それは決して悪い意味ではなく、ある条件の下でどれだけ自由にいろいろなことが出来るのか、そういう一種実験的なことをやってるのではないか。そういう楽しさもある曲です。

 

チンアナゴの理性」 荒木若干

どんどん緊張感が高まっていく曲。粒だったカッティング、適度にひずんだメインリフ、ディレイのかかったクリーントーン、さまざまなギターの音色が使われており、「外はカリッと、中はふわトロ」という食感の曲です。 

特筆すべきはものすごいシンコペーションヘッドバンキングで頭を前に思いっきり振って、ゆっくり戻すような感じ。

曲全体に広がっているのは緊張感、苛立ち、苦痛、不安といった感情。かなり不良のチンアナゴです。それも一昔前のヤンキーのツッパリという感じではなく、都会の路地裏でフェンスにもたれかかってる不良。

街の上には青空が広がってるが、ビルの下ではケモノたちが息を詰めて眠っているのだ。

 

「途中でゴォ!」 ニニヒと雲

かなり尖ったサウンドのロック。ノイズなのかフレーズなのかわからないアグレッシブなギター。攻撃的ながらもテンポは流れるマグマのように遅く、岩盤浴のように体の中の悪いものが気化して出ていく。聴けば胸に溜まったドロドロした叫びを搾り取られ、ヘロヘロになります。

優れたボカロアルバムである「No Vocaloid」に参加していた二人の共作ということもあるのでしょうが、この曲で俺はチンアナゴLPがボカロ音楽のアルバムだということを思い出しました。これほど爆音のギターでありながら、初音ミクがカワイイというのはとんでもないことだと思います。歌うことの楽しさを知ってるような元気な初音ミク。サビに入る時のコーラスとギターのハーモニーは凄い。

 

「すながちなすいそう」 m.moriz0

憂鬱ながらもべったり貼りつく感じじゃないところが見事。とてもいい感じにソフィスティケート(都会的に洗練)されてます。といっても、変なシンセ混ぜたりするようなうさん臭いソフィスティケートではなく、あくまでもシンプルなものです。楽器構成にそういう余分なものが混ざってないから"等身大の誰か"を感じることができます。

歌詞には非常に淡々とした諦め、投げやりのようなものが漂っています。それは日常のエアポケットのような個人的な時間での内省、たとえば真夜中にふと目が覚めてしまった時のあの疎外された時間の、孤独とか不安とかそういうのがないまぜになった心象だと思います。それを誰かに伝えたいと思っても、彼らは砂に潜って出てきてくれない。それならこっちも水でも飲んでから、また布団に潜り込むしかありません。

 

「進化」 leas

手のひらにすっぽり収まるような小さな音楽です。淡々と歌われる独り言。置いてけぼりにされる感覚。しかし、変わっていくのは周りだけではありません。自分も例外ではなく、選択を迫られているのです。

そして選んだのは、「ぴったりな自分」というよりはあまりにもささやかな自分です。自分と世界、あるいは自分と他者の距離。かなり遠いという感覚。海底の砂と夜空の星ほどの距離です。しかし、そこにあるのは救いのない孤独のみ、というわけではありません。少なくとも星たちは優しく瞬いているように思えます。

「進化」という視点は遥かなるものです。このチンアナゴは星空の視点から自分を眺めています。進化は巨大な力であり、全てが否応なしに変わってしまいます。チンアナゴはそれを理解したうえで小さな声でメッセージを発するのです。「私は世界の一部であり、そしてここにいる」と。

 

「星夢見るチンアナゴ」 夕立P

 七夕の天の川をイメージするサウンドです。

歌詞の視点は人間であり、チンアナゴを他者として眺めています。その視点からは、一見して弱い生き物であるチンアナゴに対する優しさを感じます。

キーワードは星です。星は我々が生きているこの地球から遠く離れているものです。海底にいるチンアナゴたちは、純粋な好奇心からか遠く離れた星を夢見ています。そして奇しくも彼らはまるで、海の底の星座のように見えるのです。

か弱いチンアナゴと壮大な星というコントラスト、そしてそのふたつから同じものを見つけることのできる人間の目。この三者を結ぶのが歌です。七夕の短冊に願いを込めて歌った昔の歌人のような、そんな趣を私は感じます。

 

「ゆらめき」 known

さまざまな楽器を使ったオーケストラのような編成です。曲が展開していくにしたがって、静かな海の水平線から昇る日の光のように音楽が立ち上がっていきます。

空間を生かしたサウンドは特筆すべきものがあります。しかし、その広大な空間の中で、歌を歌うのはたった一人です。この曲はいたずらに壮大なものではなく、むしろ個人にそっと寄り添ったものなのです。

私が面白いと思ったのは、歌詞に「匂い」という言葉が出てくることです。珍しいと思います。匂いは記憶と深く結びついています。一番原始的な感覚でありながら、目で見えるものほど顧みられません。匂いの思い出は、往々にして肌の温もりと結びついています。過去の温もり。しかし今はたった一人です。それでも歌う彼は過去に囚われてばかりではありません。今に揺らめきながら”君”を見ているし、”君”が隣にいる未来を夢見ているのです。

 

「ガーデン」 青屋夏生

チンアナゴLP Garden」を締める曲。タムが南国を思わせます。グリッチ感。飛行機に乗ってたどり着いたガーデン。小さな箱庭から急に開ける熱帯。チンアナゴたちの祝祭。そして波が引くように落ち着きます。それぞれが自分のあるべき場所に戻っていく。ゆっくりと準備が整えられる。そして歌が始まる。歓喜、肯定、礼賛。生まれた時から共にある音楽の姿。

海底、生命、このアルバムを通しての重要なモチーフがここでも使われています。小さくか弱いチンアナゴたち、そして生物たちが生きるこの世界。過去、現在、未来の流れの中で、星のように輝く小さな命。だから何?ってことでもないけど、ただそのことを祝福する。この曲はそんな曲ではないかと思います。

 

チンアナゴLP Aqua Gallery」に続く

ミックホップというジャンルについて

ミックホップというのはヒップホップの要素を含んだボカロ音楽のことです。このジャンルが成立したのはつい最近のことです。その成立の始めにはネガティブな意見もいろいろと言われたそうです。しかし、何があったかtwitterなどで調べたけど詳しくはわかりませんでした。おぼろげにわかったのは、そのコミュニティ性を批判されたり、「ビートが黒くない」や「トラックに目新しさがない」という批判があったようです。このことは後にまた考察します。

 

ミックホップの初期作品として重要なのは"MIKUHOP EP"だと思います。これはさまざまなアーティストが参加しているコンピレーションアルバムで、無料でダウンロードできます。

omoidelabel.bandcamp.com

 

それから無料でダウンロードできるミックホップLP<MIKUHOP LP | Stripeless>というのもありますし、有料でダウンロードできるミックホップLP2:Border<MIKUHOP LP2:Border | Stripeless>というのもあります。その中心には”しま”という人物がおり、これらのアルバムの企画や運営に携わったプロデューサー・ディレクターです。彼もまたミックホップについて重要な役割を果たしています。

 

それから「初音ミクの証言」という作品があります。これは日本のヒップホップのラッパーたちがマイクリレーをした歴史的作品である「証言」という楽曲のボカロによるパロディです。しかし、歌詞そのままトラックそのままの単なるカバーではなく、7人ものボカロPとビートメーカー、ほかディレクターやマスタリングなど多くの人が関わった、内容的にはオリジナルのもので、ミックホップ史における換骨奪胎の重要作です。

 

初音ミクの証言 by 松傘 VOCALOID/動画 - ニコニコ動画

 

ミックホップにおける重要な人物・作品を紹介していくのはここらへんでやめておきます。興味を持たれた方は”しま”プロデューサーや、上にあげた作品を中心にたどっていってください。

 

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ミックホップでひとつ言われている(いた?)ことはコミュニティ色が濃いということです。情報が少ないので曖昧な言い方となりますが「コミュニティ色が濃いことに関連してその言葉の成立の初期に一部の人がこの言葉で不快な思いをしたことがあった」ようです。しかし、私は実際にその一部始終を見たわけでもなく、また誰かがその件をまとめたものを参照したわけでもありません。私がミックホップの歴史に関して持ってる情報は少なく、せいぜいtwitterでミックホップというワードで検索して得たくらいのものです。

ところで、そもそもここで言われているコミュニティとはいったいなんなのでしょうか?何か特定の団体のようなものがあって、それに名前がついてるのでしょうか?

思うにミックホップの特定の団体は存在しません。(あるいはコミュニティ性の批判のやり玉に挙がった固有名詞はあるのかもしれませんが、当時の事情を詳しく知らないので何も言わないでお茶を濁します)

そこにあるのは「ミックホップ勢」と呼ばれる漠然としたまとまりだと思います。(とは言ってもその呼び方で話題となることはほとんどありません。主にtwitterでの呼称です)

ところでミックホップを発信するネットレーベル(レーベルとはざっくり言って音源発信組織)は存在します。私が代表的と思うのは先ほどから名前の挙がっている”しま”の主催するStripeless Labelです。しかし、このレーベルはミックホップ限定というわけではなく、他のジャンルの作品も意欲的に発信しています。なので「Stripeless Label=ミックホップ」という単純な式は成り立ちません。

現状ではミックホップというジャンルの中に異なる名称・思想のさまざまなコミュニティがあるというわけではなく、ミックホップ全体が漠然としたまとまりになってる印象です。もっとも、ビーフ(誰かが誰かを攻撃(ディス)してそれにやり返すというヒップホップにおける抗争)はあったようです。(この場合、ディスの構図は「ミックホップのメインストリームvs周辺の個人」だと思われます)

ミックホップのコミュニティの構図は基本的に「ミックホップ勢」と「その他」であり、先ほどの「コミュニティ色が濃いことに関連してその言葉の成立の初期に一部の人がこの言葉でした不快な思い」というのは、「その他」の人々が「ミックホップ勢」と見なされることに対する不快感だったのだと思います。(しかし「ミックホップ勢」が徒党を組んでいるわけではありません。たまに手を組むことはありますが、その一人ひとりは基本的に独立しています。対立はほとんどないけど、その代わりバンドのような強い結束力があるわけでもない印象です)

「ミックホップ」という言葉・ジャンルはまだ発展途上(あるいはもうこれ以上発展しないのかもしれない)であり、(食うか食われるかのコンペティションとして)内部勢力のバリュエーションに乏しいのでその言葉自体に、ひとまとまりの「コミュニティ性」がつきまとっているのです。「コミュニティ色の濃さ」はその言葉が流通し多くの人々に使われていく間に薄まるものだと思います。内部でディスが発生したことは、ミックホップという単細胞が分裂してより高度な多細胞生物へと変貌していく希望を感じさせるものでした。

この楽曲は「初音ミク」を使ってることで同じ土俵に立ってるわけでそれは素晴らしいことです。人間のヒップホップのラッパーがミックホップをディスるよりは意義があることだと思います。

 

¥THUG_MIKU - reMIKUtance by ¥THUG MIKU - ニコニコ動画

 

しかし、この楽曲も2014年のもの。それからミックホップの強力な反乱分子が現れてないことを思うと「ミックホップ勢」vs「その他」の構図だけのまま安定するのかもしれません。(もちろんそれは悪いことではありません*1)

私が反乱分子になるという手もあり、狂犬のように周りに喧嘩を売り始めたらめちゃくちゃ面白いでしょうが、もちろん怖いのでそうはなりません。意見だけ言って高みの見物という姿勢は超ダサいのですが、許してください。

 

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これからこの記事で私はミックホップの「コミュニティ色が濃い」という側面を全て切り捨てようと思います。(正直に言えば全て切り捨てることが可能なのかわかりませんが)つまり「ミックホップ」という言葉を「ヒップホップの要素が濃いボカロ音楽」という狭い意味で考察していこうと思います。

 

そもそも私がミックホップという言葉と出会ったのは、自分のアイデアの名前を知りたくて「ボカロ ラップ」でネット検索したのがきっかけでした。RATMやベックなどのラップするミクスチャーロックの影響から、私はごく自然に「ボーカロイドにラップをさせる」ことを思いついたのでした。

調べたところボカロにラップさせることは「ボカロラップ」と呼ばれているようでした。それともう一つ「ミックホップ」という言葉も知りました。当初私はボカロラップとミックホップという言葉の違いが分からず、どっちも同じようなものだと思っていました。そしてボカロラップよりはミックホップという呼び方の方が気に入ったので、私はミックホップという言葉を使うことにしました。なぜ私がこの二つが同じようなものだと思ったかというと、それは私がヒップホップというものを真剣に考えてなかったからだと思います。素人だから適当でも許されると思っていたところは正直あります。

 

話は変わりますが、「人間じゃない機械(ボーカロイド)が歌うのはキモい」という意見を私はネットなどで知りました。その意見に関しては感想は個人の自由だし、それに私はボーカロイドが嫌われようが好かれようがどうでもいい感じの人間なので不問のままにしておきます。私が思うのは「歌うだけで嫌われるボーカロイドがラップしたらもはやそれはギャグなんじゃないか」ということです。これがラップじゃなくて読経やホーミーやヨーデルやデスボイスでもギャグです。例えば初音ミクがこのような特殊な歌唱をすることに対し、ボカロをキモいと思ってる人は「調子に乗るなよ初音ミク」と思う事でしょう。(実際には歌ってる時点で嫌悪感はメーターピークの赤で、特殊な歌唱しようが総じてクソで違いはないと思うのかもしれません)

 

ボカロは人間が歌う音楽に対するカウンター(反動音楽)と言ってもよいでしょう。ある時点に本来は仮歌に使われていたソフト(ボーカロイド)を楽曲のメインに据えるという革命が起き、ボカロは人間の声のオルタナティブ(代替的)な選択肢となりました。

ボカロ音楽というのは「ボカロ(に限らず音声合成ソフト)を使用した音楽」のことで、その一点が他の音楽とボカロ音楽を分ける分水嶺です。たったこの一点にどれだけの意味を持たせるかによって、ボカロ音楽のコンセプトが変わってきます。もちろんほとんど意味を持たせないことも可能で、ボカロを使ってる人全員が既存の音楽に対する反抗という使命を帯びているわけではありません。

ボカロ音楽のカウンターの性質はボカロ音楽のロックでもテクノでも演歌でも継承することが可能です。その流れでミックホップというのは「ヒップホップへのカウンター」という事ができるでしょう。(もっともボカロをコーラス(ほとんどシンセ)のように使うこともあり、その場合また別の意味が発生するのかもしれません)

要は「ボカロを混ぜることでエキセントリックなヒップホップとなり、本来のヒップホップからある程度離れた自由な曲作りができるのではないか」ということです。

 

では、ミックホップはヒップホップと比べてどう自由なのでしょうか?

「自由」というのは「必ずしもヒップホップの人々が頑張ってる土俵と同じ土俵で戦うことはない」という意味です。

ミックホップ(MIKHOP EP)が受けた「ビートが黒くない」や「トラックに目新しさがない」という批判と絡めて考えてみましょう。(実際に黒くないか、新しくないかはここでは問題にしません)

この批判で感じるのは「ビート」や「トラック」ばかりに注目され「ヒップホップにボカロを混ぜた」という功績が軽んじられていることです。これは「ボカロ=単なる人間の声の代理」という認識から起こる軽視なのでしょう。

ミックホップとヒップホップは合同でぴったり重なりあうものではありません。はみ出す部分があります。

それはボーカロイドの領域です。

ミックホップは、ヒップホップの観点だけでなくボカロ音楽の観点からも評価されるべきです。ボカロ音楽の視点から見れば「たとえ40年前のオールドスクールのようなミックホップ」でも新しいのです。ヒップホップで見れば化石のような音楽でもミックホップで見れば新しいのです。

これは一種の逃げだと批判されても仕方ないかもしれません。しかし、ヒップホップの傍流として生まれたミックホップ(*2)が、これからヒップホップと同じ足取りを歩まなければならないことはありません。まったく別の方向で発展することもできると思います。

 

要するに「それほどヒップホップを意識せずとも、ある程度好き勝手やってもいいだろう」ということです。(*3)

 

(*1)悪いことではないと言ったのは、ヒップホップとミックホップは別物であり、ヒップホップと同じビーフという発展のしかた”以外”もアリだということです。(もちろん、ヒップホップと同じ文脈でミックホップの制作を頑張ることも可能です)

(*2)私はミックホップは「ボカロにヒップホップを混ぜた」ではなく「ヒップホップにボカロを混ぜた」ものだと思ってるので、ヒップホップの傍流と言ってもいいと思います。だったらヒップホップの文脈で発展していくのが筋かもしれませんが、でもボカロの部分も無視できない要素なので、そこらへんはこれからなるようになっていくと思います。

(*3)「ある程度」のラインは、これからミックホップがさらに発展していけばおのずと決まると思います。とにかくこのジャンルの未成熟さにいろいろと問題があると思います。(もっとも、私はミックホップを”盛り上げよう”なんて間違ってもそういう方向で活動はしません。だってそれはちがうんじゃねぇのかい?)

 

 

以上です

サンプリングという技術について

ここでサンプリングという技術について説明しておきます。

 

(※)サンプリングとは主にサンプラーという機材(あるいはパソコンのソフト)を使ってさまざまな音を取り込み、それを鍵盤やパッド(ボタンみたいなもの)を押すことで鳴らせるようにしたものです。

 

「それがどうした?」という感じで分かりにくいのでもう少し説明しましょう。

ピアノの白い鍵盤を押せばそれぞれ押した鍵盤によって「ド」や「レ」や「ミ」の音が鳴ります。

俺の声を録音したものをサンプラーに取り込み鍵盤を押せば俺の声が鳴ります。私の「ド」や「レ」や「ミ」といった声をサンプラーに取り込み、複数ある鍵盤にそれぞれ割り当てれば、俺の声をピアノのような楽器にして演奏することができるのです。

つまり、俺の声で例えばドビュッシーピアノ曲「月の光」を演奏することもできるようになるし、あるいはまったく新しい曲を作ることも可能になるのです。

あくまで例えですが、ヤバさが伝わったでしょうか。

サンプリングという技術とは(※)で説明されているだけのものですが、その技術の使い方、アイデア次第でいろんなことができるのです。

 

サンプリングという技術とヒップホップには密接な関係があります。

ヒップホップのプロデューサーたちは、最初サンプラーをドラムマシーンとして使っていました。ドラムというのはよく聞く楽器ですが、詳しくは知らない人も多いと思うので説明しましょう。あれは大太鼓(バスドラム)、小太鼓(スネア)、ハイハット(二枚重なったシンバル)などさまざまな打楽器がセットになっているのです。

そしてドラマーは一人でいろんな打楽器を叩くことでリズムを作っています。ただのタイコ役に見えてけっこう複雑なことをやっているのです。

そのドラムセットをコンパクトな機材に置き換えたのがドラムマシーンです。ドラマーは全身で叩きますが、これは指で叩けます。

つまり、サンプラーに大太鼓、小太鼓、シンバル、などドラムセットのそれぞれの打楽器を取り込んでおけば、鍵盤やパッドを押すことでドラマーとほとんど同じことができるのです。もちろん生のドラムの音の複雑さには敵わないから、ドラムマシーンが登場したからといってドラマーがお役御免になることはありえませんでした。レコードが売れてもライブがなくならないのと同じです。

さて、そんな風にサンプラーはドラムマシーンとして使われていました。そうやってヒップホップのプロデューサーたちは”トラック”を作っていたのです。

 

(トラックというのは、ヒップホップミュージック以外の様々な音楽ジャンルでも使われる用語です。しかし、あえてざっくり言うと、ラップの後ろで繰り返し流れてる音楽のことを言います。

謡曲をイメージしてください。だいたいはアイドルが前で歌って、その後ろでバンドが演奏しています。アイドルをラッパーとすれば、トラックはバンドです。)

 

そしてある時ヒップホップのプロデューサーたちは気付きます。

 

「単なる打楽器の音色だけではなく、レコードの一部をまるまるサンプリングしたら、それをループさせることでトラックが作れるのではないか」

 

「とんでもないことを考えるなぁ」と思うかもしれません。他人の演奏をまるまる自分の音楽に引用するなんて、それじゃまるで泥棒じゃないか。

 

(実はサンプリングが登場する前から、ヒップホップのアーティストたちはそれに近いことをやっていました。二台のターンテーブルと二枚の同じレコード使った「ブレイクビーツ」と呼ばれる技なのですが、それについて詳しくはここでは述べません)

 

サンプリングという技術のこのような使い方については、さまざまな意見が今もありますし、実際に多くのヒップホップのアーティストが訴えられたりしています。

 

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ここから先はごく個人的な話です。

 

私がサンプリングに興味を持ったきっかけは、休日に何気なく行った楽器屋で、アニメの女の子の声がサンプリングされたサンプラーを触ったことがきっかけでした。いわゆる萌え系アニメの女の子の声だったのですが、それが音楽として使用できるという可能性が面白かった。

およそあらゆる音を組み合わせて音楽が作れる。自分の持ってるCDレコードはさることながら、アニメの音声、はたまた環境音まで。その音楽に対する”冒涜的”とも言える発想を可能にしたサンプリングという技術。音楽史のスキャンダル。

私は最近までサンプリングは、そういうパロディのようなものだと受け取っていました。

もちろん、そういう側面があるという考えは今でも変わっていませんが、それだけではないということに気づいたのです。

例えば、1970年代のファンクミュージックだけをサンプリングして作った音楽はどんなものになるか?

それは1970年代のファンク特有のノリを含んだ音楽になるのではないかと思います。

既存のあのノリが欲しい、あるいはあのサウンドが欲しい、それを可能にするのがサンプリングということに気づいたのです。

それは多分ヒップホップのアーティストたちが本来やっていたことで今さらそれに気づきました。

 

参考文献:「文科系のためのヒップホップ入門」長谷川町蔵・大和田俊之