澤口瑞希の作った音楽

澤口瑞希の作った音楽 ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

これは俺が作った曲です。

まず、この曲を作った動機から説明します。

この曲の前に作った「すり身のドープ」という曲を一部の人にすごく褒めてもらえたのですが、その体験は俺にとって焼けるような快感でした。しかし、その快感は同時に俺に不安をもたらしたのです。

「すり身のドープ」は種明かしをすれば、「音楽の中でその音楽の説明を言葉でやってしまう」というものでした。本来ならば言葉による説明はその音楽とは切り離されるべきものです。しかし、それを音楽の中でやってしまう。従来の「作品は作品自体によって説明されるべきだ」という”創作の理想”に対するパロディです。

このアイデアは一種、冒涜的であり、この音楽を発表した時点で俺は誰かに怒られるのではないかとビビッていました。

しかし、思いのほかウケがよかったのです。俺は正直、驚きました。まさかこんなに良い反応をもらえるなんて!

それは確かにうれしいことでしたが、正直に言えば、「すり身のドープ」は一発ギャグのつもりであり、この路線で頑張るつもりはありませんでした。

また、「この快感は俺のやることに対する規制となるのではないか」と俺は思いました。これは良くないと思いました。ゴミはたまに作るくらいがちょうど良いのだ。そして俺はこの体験を”素敵な思い出”として心にしまったのです。

しかし、「すり身のドープ」のような音楽を「アリだ」と言う人が少ないながらもいる。新たに発見されたその事実を俺は面白いなと思いました。

もっと言えば、「こんな音楽が存在することを許す人間が俺一人ではない」ということを実際に知り勇気を得たのです。

俺はあと一回、「すり身のドープ」みたいなコンセプチュアルな音楽を作って、それでおしまいにしようと思いました。その時、すでにもう一つアイデアがあったのです。それが「澤口瑞希の作った音楽」でした。

そのアイデアというのは「バーチャルシンガーがあるのだからバーチャル作者もありなのではないか?」という単純なものでした。

具体的には、まず澤口瑞希というキャラクターを作り、そのキャラクターを説明し、その上でキャラクターによって作られたという”設定の”音楽を提示する。

”作者”という作品の良し悪しとは本来関係ないはずの情報で、音楽そのものの印象が変わる。無論変わってしまう。印象とはそんな危ういものである。ということを考えていました。

 

振り返ってみるに、今の最先端の音楽理論なり、文学理論では、俺がこれらの曲で示した危うさや不信感は、すでになんらかの説明がなされているのだと思います。しかし、俺はそれを知らない。

繰り返しになりますが、俺はもうしばらくコンセプチュアルな音楽を作るつもりはないです。でも今後もし理論を知ることにより、新たな問が発生したら、また作ることになるように思います。

sappy cacao

soundcloud.com

 

pip&taoの音楽の音楽を聴くと、自分がゴリラにでもなってしまったかのような気がします。

pip&taoの音楽は俺から遠いところにある。しかし、それは天上から聞こえる音楽ではなく、現世的なものです。ではその正体は何か。俺は優しさだと思います。

pip&taoの音楽はどうしてこんなに優しいのでしょうか。まるで魔法です。それが仮に魔法でなくて手品であっても一向にかまわない。

pip&taoの音楽は天上的ではない。ですが、幻想的ではあります。その幻想の源泉はなんでしょうか。俺はそれを知りません。それは知ってはならないことのように思います。正直、手に負えるものではなさそうだ。

 

”そんなの知りたくないよ

知りすぎれば狂ってしまうよ”

 

”sappy cacao”この曲からは痛々しさを感じます。直接的な言葉を使えば、危険だ。

なんてものを作ってくれたんだ!

俺は知りたくなってしまったのか!

 

どうしようもないから逃げる。

No Vocaloid

novocaloid.bandcamp.com

 

"No Vocaloid"は俺が新しい音楽を始める一つの契機となりました。

俺にとって新しい音楽とは何かというと、端的に言えば「抽象的な音楽」です。

音楽は言葉よりも抽象的ですが、それでもほとんどの音楽は堅い外殻があります。それはビートだったり、主題だったりします。例えるなら映画の指定席ですね。「あなたはここに座って、今から風景の次々と変わることを見ていてください」という音楽は親切で分かりやすい。

しかしノイズは抽象的です。ノイズというジャンルにはあまり詳しくはないのですが、ノイズというのは"音楽の響き"を極限まで追求した姿なのかもしれないと思います。とても"美"に目を向けてる。今まで私は"音楽の響き"にはまったく無頓着でしたから、このアルバムはそういう意味でも新鮮でした。

もっともこのアルバムはノイズだけではありません。オルタナティブ・ロックもあります。それもこのアルバムの大事な要素です。切り捨てるつもりはない。

 

このアルバムの全体構成。(ダブルクォーテーションで囲った部分は、重要な要素を抜き出しただけにすぎないので、どんなものかは実際に上のリンク先から聴いてみてください)

1~3:ニニヒ "オルタナティブ・ロック"

4~6:雲 "ギターの入ったノイズ"

7~9:包み紙 "電子的なノイズ"

10~12:Jake "サンプリング音楽"

 

この構成には意識的なものを感じます。

オルタナティブ・ロックからノイズに移行しサンプリング音楽で終わるという構成は本当によくできている。このアルバムを全体を通して聴いて、一つの物語を感じたのは、おそらくそのカッチリとした構成のためでしょう。

 

ロックによってポピュラー音楽にノイズが導入されました。つまり歪んだギターのサウンドを使うようになったのです。だがノイズよりはロックはまだわかりやすい。このアルバムでニニヒは入口の役割を果たしています。

 

次に雲が暴力的に歪んだギターを引き継ぎます。抽象の階段をどんどん上がっていく。多くの人はここで聴くのをやめてしまうのではないでしょうか。音楽がどんどんわからなくなっていくから。「いったい俺にどうしろっていうんだ?」と思うほど、途方に暮れてしまう。リスナーはだんだんこのアルバムの最深部へと入り込んでいく。

 

そしてたどり着くのは夢の中です。包み紙の音楽はもしかしたら悪夢かもしれない。抽象的な音楽で見るのは外の風景ではありません。自分の中の風景です。リスナーはこのアルバムの奥深くへと入り込んでいたようで、実は自分の中に入り込んでいたのではないか。もし包み紙の音楽が悪夢に感じても、それは薬の副作用のように治癒していく過程で発生する苦痛なのではないかと思います。

 

そしてまるで目が覚めるたかのようにJakeへと繋がります。

サンプリングは音をより抽象化することではないかと思います。ある文脈で使われていた音を別の文脈に持っていくことがサンプリングですが、その過程には抽象化が行われています。「AはBでも使える」と考えるのは抽象化です。そして出来た音楽がポピュラー音楽の形をとっている。ポピュラーに始まりノイズを経てポピュラーへと戻ってきたのですね。その意味で俺は"No Vocaloid"を「入口と出口のある素敵な体験」と言います。

 

このアルバムはボカロ音楽ですが、「ボーカロイドのヒットによって音楽がより個人的なものになった」という類の話はここではしません。そういう事情にこのアルバムの重要な意図があるのかもしれませんが、俺はそれよりも"No Vocaloid"の面々が持つ新しい音楽が純粋に面白かったのだ。