背伸びをしたらなにもかもお終いよ

最近は雑記になってしまっている

リスペクト

ア・トライブ・コールド・クエストが好きなんですけど、じゃあ好きな曲は何かと聞かれると答えられない。それは単純に曲名を知らないから。それのみならず、ATCQがどんな感じだったかも思い出せない。なのになぜ好きかというとそれにはちゃんとわけがある。

たまに音楽を自動再生で聴いたりして、「これいいな」と思うやつは名前を確認する。ヒップホップのジャンルでそういうことやって「これ良いな」と思ったらそれはATCQだったということがよくあった。いや、本当はよくあったかどうかは定かではないのだけど、割と印象付けられているのだ。

ここで私はATCQを「良いな」と思ったことは覚えているけど、ATCQの音楽の内容は覚えてないのだ。

「好き」というのには濃淡があるとしてこれは薄い「好き」だと思う。「それは好きとは言わない」という誹りを受けるかもしれないが、薄い「好き」なのである。もちろん本当に好きな人と「好きの度合い」で張り合うつもりなどまったくない。

この「薄い好き」も楽しいのである。浅瀬ちゃぷちゃぷという感じだ。趣味的であるが、「趣味」というのは嫌な言葉だ。私は「趣味」という言葉が嫌いである。話がそれてしまった。

「分からない地獄」にはまり込むことがよくある。音楽を聴くも分からない。辛い。少し分かったように思えても、自分が分かった程度のことは全然大したことじゃないような気がする。だから何も分かった気にならない。(そのくせ、心の中ではどこか分かってる風な慢心もある)。そういう地獄だ。

自分ディスをすれば、地獄は単に要領が悪いからであって、もっと才能が身についてたらちゃんと歯ごたえのあるもの噛めてると思う。

地獄でけっこう。大いに苦しむがよい。苦しみが人間を成長させる可能性がある。それでもやはり辛いのは困る。

なので、薄い好きを楽しむ。

「薄い好き」は個人的なものである気がする。

 

自分だけ知っているものには何の価値もない。価値は他人に通用して初めて生まれるものだからである。(おそらくこの不安にもすでになんらかの名前がついていることだろう。それはまたおいおい追求していこう)

他人にとって価値のないものを持つ意味みたいなのがよく分からないのだと思う。というか、これは強欲なのかもしれない。自分が楽しむに飽き足らず、他人を巻き込みたいという私の強欲があるのだろう。

自分というものが未だによくわからない。いい加減分かりそうなものなのだが、分からない。何か認めたくない事でもあるんじゃないかね。

 

「天国へ行こう。天国へ行こう。僕も君も空の上でドロドロに混ざり合って」

きくおの「天国へ行こう」って曲がめっちゃ好きですね。皮肉の匂いがする。こういうタイプのイノセンス感はめっちゃ分かる。

(なんで急にこの話をしたかというと、聴きながら書いてるからである)

 

でも私はきくおに金を払ってない。私の行動がきくおの収入に繋がることはあっただろう。例えばspotifyで聴いたりTSUTAYAでCDを借りたりはしたよ。でも作品を買ったことはないのである。

これが私が何度も言及している松本人志に対してもそうで、金を払ったのはだいたいTSUTAYAか広島の方にあるフタバ図書っていう本屋でDVDを借りるか、ブックオフで著作の古本を買うかくらいだった。

あとyoutubeに挙げられてるのとかを見ていた。

レンタルビデオショップや古本屋やインターネットにはめちゃくちゃ世話になった。というか今もなってる。

マジで最高すぎるだろ。ありがとうございます。でも同時にアーティストにももっと金を払いたい気持ちもある。

AmazonでビジュアルバムのDVDを買った。あときくおのCDも買った。大した金額じゃなかった。

(追記:

でもこれはキリがないよな。今はsquarepusherを聴いてるが、squarepusherのアルバムだって買ったことない)

 

これは思いついて近いうちに絶対やるけど、家の近くのビジネスホテルとかに籠って、音楽とか一人で聴きまくるやつやる。部屋が乱れてるので神経がかき乱されるのだ。

子供の頃とか公民館で勉強したりしたよな。そんな感じで好きなことを集中してやれる空間を演出したい。でも本当に意味あるんだろうか。私は公民館で友達と勉強しようってなっても出来たためしがない。

 

モチベーションが上がらんねん。いずれ寄席とかもいくぞ。

 

一言ネタ行きます。

 

・私のこと理解されたらどうしよう。シュミレーションしとかなくっちゃ。

作品についてあれこれ言うのは難しい

別になにかを受けてこの記事を書くわけではない。

私は今まで特に他人の作品を褒めたことでケンカになったような経験はありませんが、でも世の中には「褒めたつもりが作者激おこ」なんてことがありますね。

人間の切ないすれ違いです。でもまぁ大したことではないと思うけど。

 

例えそれが褒めるつもりでも、作品についてあれこれ言うのは作者と喧嘩する覚悟がないとできないんじゃないか。

それはコミュニケーション全般に言えるだろう。「小さな親切、大きなお世話」という言葉もあるし、善意が常にいい方向に働くとは限らないのである。

 

ただ、切ないよね。

なにかのファンで、楽しんでたら、なにかの拍子に他人の怒りを買うだなんて、情けない話ですよ。

 

あと、広告が意図せずに炎上するのを見るのは悲しいよなぁ。

広告には夢や希望があって、祈祷にも思える行為だと思う。それが、雨乞いしたら火事になったみたいなもんだからな。

そういう悲劇は嫌だなぁ。

 

仕方ないんですけどね。

 

作品について何か語ると、それを聞いた人が引きづられて作品に対する印象が固まってしまうということもあります。

「あくまで他人の一つの意見」と考えないといけない。

ただこれだって、印象付けられていることに気づかないこともけっこうあるからね。気づかずに一面的な見方しかできてないとか。

まぁ、人間が真に客観的な評価を下せることはないんじゃないかと思うけど。難しいよね。

 

作品についての批評と、批評されたその作品は無関係だと思う。

作品についての批評はつまり、二次創作みたいなものだからな。あるものを撮影したからってあるものに影響はないのと同じではないか。

ちょっと詭弁くさいな。

批評はなんでもアリの自由かというと、それもまた難しい話です。

難しいので分かりません。難しいですね。

 

 

批評について書かれた本を覚えてるだけで二冊持っているのですが、二冊とも読んでいない。

私もがんばらないとねぇ。

 

追記:

そういえばなんでこんなことを書いたのかというと「人の作品を詳細に解説することはある種失礼である」とぼんやりと思ったからですね。

理由の一つは、作品とは闇とか作者の恥ずかしいもので作られることも多いからと言える。それを掘り返すのは失礼に繋がる。

でも、作品を発表するからには仕方ない部分もあるし、私も解説したくなったら失礼でもやるだろう。

重ね重ね、作品についてあれこれ言うのは怖いことだなぁという感想。

でたらめ音楽教室・課外授業《ボカロ》17に行きました

https://ongakunojikan.com2019/05/11.html

 

という催しに参加しました。参加したのは突発的な思いつきで、前日くらいに行くと決めました。

どういう催しかざっくりというと、「集まってボカロ音楽について語る」というものです。

今回はボカロ音楽家のぐらんびあ氏が主役でした。

ぐらんびあ氏のマイリストを貼っておきます。

www.nicovideo.jp

 

ざっと感想を書きます。

 

本日のでたらめ音楽教室の基本的な内容は、ぐらんびあというミュージシャンの音楽遍歴や、その楽曲の魅力について語るという、非常にありがたい催し。アーティストを解剖していくのは下世話ながらワクワクしますね。私もいろいろ勉強というか、覗かせていただきました。

 

私自身も生身で参加した痛み分け、もといそのおかげで、生のぐらんびあ氏はじめ参加者の皆さんにお会いすることができました。ちなみにその場の全員と私は初対面でした。少なくとも今世では初対面です。

ぐらんびあ氏は気さくで丁寧な方でした。もっとも「気さくで丁寧」という表現で私が氏から感じた人となりを伝えることは困難です。ですがとにかく、とても気さくで丁寧な方でした。

 

私はでたらめ音楽教室に参加する準備として、会場に行く道すがらコンビニで一冊のノートを買いました。これに今日知ったことをメモするためです。しかし、メモを取ることが重要だとは知っていましたが、肝心のメモの取り方が分からず、結局メモは取れませんでした。今にして思えばぐらんびあ氏の音楽遍歴についてメモしておけばよかった。

 

まぁ多少は覚えてるので、私はそれを元にじっくりと聴いていけばいいのだけど。

 

最近のでたらめ音楽教室では、最後に会場のみんなでどれか一つ動画を選んでニコニ広告しているようです。(ニコニ広告というのがなんなのか私も詳しくはわからないのですが、ポイントを入れると動画が再生されやすくなるシステムのようです)

 

今回選ばれた動画はこちら。

https://www.nicovideo.jp/

www.nicovideo.jp

後出しくさいこと言えば、実はこの曲は事前に聴いて気になっていた。イラストもかわいらしいし。

 

 

ちなみに私が票を入れたのはこの曲。

www.nicovideo.jp

四つ打ちはやっぱり乘りやすい。

 

あとこの曲も気になった。

www.nicovideo.jp

 

これは確か会場では流れなかったけど、前から知ってたぐらんびあ氏の曲。

www.nicovideo.jp

 

私はぐらんびあ氏の熱心なリスナーではありませんでした。なので参加に当たってぐらんびあ氏の音楽を少しは知っておこうと、デタラメ音楽教室に行くまでぐらんびあ氏の曲をずっと聴いていました。(終わってから家に帰るまでもずっと聴いていました)

 

ありきたりな感想ですが、私が氏の音楽を評すれば、「ウユニ塩湖のエレベーター」です。

こういう感想もまかり間違うと下手に曲のイメージを固定してしまうのでよくないのですけどね。私はまだぐらんびあ初心者なので、これからどんどんぐらんびあ氏の音楽に対するイメージも変容していくと思います。

 

デタラメ音楽教室では時間の都合で聴くことはなかったのですが、ぐらんびあ氏がニコニコの音楽を選曲したマイリストがあります。

www.nicovideo.jp

ありがたいですね。こういう情報を頂けるのはありがたい。

 

以上です。

でたらめ音楽教室に参加してよかった。みなさん、ありがとうございます。

やっぱり人がいる会に参加するのは楽しいな。また勉強させてもらいに行きます。今度はもっと聞き役に徹してみなさんの知識、愛情、感動、その他もろもろ吸い取りたい。

 

ぐらんびあ氏、現在も楽曲を制作中とのことです。

私もチェックします。

そんなに感動することがない

私がどうして生きてるのかと言えば、死の恐怖を除けば死ぬのがもったいないからである。

「人生には意味がないかもしれない」と思う。

なぜそんな虚無的な人間が生きているのかと言えば、もったいないからである。


考えてごらんなさい。

私は今、「人生は意味がない」と思っているよ。でも、もしかしたら今後、考えが変わる可能性もあるじゃない。それは損得どっちに転がるかは分からない。

だけど得する方向に転がっていく可能性が多少あるのだから、それならば生きてみようという気がするのである。

私はそんな風に「もったいない」と思うたちである。何もしないのはもったいない。


私は本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、引っ越しをしたりしたい。

いろんな経験をして、できるだけ多くの感動を得たい。

だが、それを阻む二つの命題がある。

・この世に無限湧きするものなどない。

・適切なものが常に適切な場所にあるわけではない。


これらは私なりの格言である。格言だから抽象的である。

今のケースで言えば、まずひとつ目は「いろいろチャレンジしたいけどそのヤル気が湧かなかったりする」ということである。

そして二つ目は「チャレンジしても別に良かったと思わないことなんてザラ」ということだ。

常に感動を追い求め、アクションのたびに感動する。ということは無理なのである。

私はもう毎回毎回ビッシャビシャのパッキパキに感動・感動・感動・感動という感じになりたいのだけど、それは無理。


もっと言えばたとえ感動しても持続しないことが多い。

例えばすげぇコントをYouTubeとかで見ます。笑い、すごいと思う。でも1時間もしないうちに元の木阿弥の泥暗愚人形に戻る。

見ていたアニメの最終回、友達とメールしながら見てて、お互いに「悲しい終わる悲しい終わる」と言い合ってた。でも終わって最後「寝るわ」と送ったら「おやすー(^^)/~~~」みたいな返信がきて、あの二人して悲しんでたのは一体なんだったんだ?みたいな経験、ありますよね。

その後一人になって、布団の中で「終わったな〜、終わったな〜」と振り返ることはある。でもとにかく、感動なんてそんな持続しない。


今の時間を泥暗愚人形として過ごすことにもったいなさを感じる。

だがそれは仕方ないのである。

どれだけ感動できるか?どれだけ感動しようと努力ができるか?これは自分の才能だ。


んんん!!!……


そんなに感動することはない。

だが世界には「ここはひとつ頑張って他人に尽くしましょう」という人がいる。

例えば、他人を楽しませようと頑張る人がいる。芸人とか、クリエイターとか。

それだけじゃない。

その辺のコンビニの店員だって「よし、気持ちよく買い物してもらおう」と頑張る瞬間だってあるさ。私は元コンビニ店員だ。もちろん、常にそういう努力をするのは難しいし私は基本的にはテキトーにやっていた。

それはとにかく、人々の他人に向けた努力が世界には溢れているのだ。この世界は素晴らしいのである。

それでも往々にしてあんまりいい気持ちじゃないのは、他人になにかをしよう、喜んでもらおうとする試みが常に功を奏すとは限らないから。

お母さんはよく毎日私にご飯を作ってくれてたもんだね。私は当然のごとく食ってたよ。

まぁ、それが普通なんだな。お母さんがご飯を作るのは普通なんだ。普通はすごいのだけどね。

ご飯を作ってくれることに毎回感動することはない。普通だから。

そういうわけで、世の中大変なのだ。

気持ちなんか通じないのが普通だよ。誤解しちゃ悲劇だぜ。

「愛してる」って言うのは、祈りなんだと思うね。


インターネットはさまざまな感動報告に溢れてる。私もよくするよ。しかし、別に発信者の24時間をフルタイムで記録してるわけじゃない。感動したらそこだけ切り取られるのだ。のべつまくなし感動してる人なんていない。


中には感動に溢れる楽しい暮らしをしてる人もいるだろう。その人は才能があるのだ。そういう人からおこぼれをもらうくらいの根性は、私も持ちたいけど。


とにかく基本的には感動なんかあんまりしない。

感動するのが当たり前なんてことはない。



わたしには

ある。

なにが?

あるんですけど。

なにがあるって?

わたしには「ある」ということを知っている。

だが、これを読む人はなにが「ある」のか知らない。

そもそも「ある」ってどういうこと?

ここでいう「ある」とは「存在する」ということだけど、いったいどんな風に存在してるの?

浮いてるの?触れるの?空想上のもの?観念的なもの?みんな知ってる?

「ある」の質感はどういうの?

 

結局なにが「ある」のかと言えば、

とあるモチーフがある。

とある情景がある。

とある発想がある。

ひとつある。

それを元に、なにかを創作する。

 

それで?

そこから先がよく分からないというね。

 

追記:

というわけですけど。

なにが言いたいかよく分からない文章なので、補足をします。

これを書いたのは「作品を膨らませて作っていくのめんどくさい」と思ったのがきっかけでした。

 

例えば、私は前にこんな四コマ漫画を描いたのです。

 

タイトル:「底なし沼」

1コマ目:男が沼に沈んでいく「助けて!底なし沼だ!」

2コマ目:男はあることに気付く「ん?なんだかあったかくて気持ちいいぞ!?」

3コマ目:「わーい温泉だ!極楽極楽!」喜びながら沈んでいく男

4コマ目:完全に沈んで見えなくなった男。沼からは温泉の湯気が出ている。

 

これは、「底なし沼かと思ったら温泉でもあった」というひとつのアイデアです。

追記:

こういう「〇〇が〇〇」みたいな論理的なものではなく、なにかのシーンのイメージや気持ちということもあります。

こういうアイデアを、どういう構成で見せるかを考えるのは、好きなんで楽しいんですよ。(まあ本腰入れて考えるのは大変だけど)

「男がだんだん沈みながら逆に喜んでるように見せよう」とか「最後に湯気を出してトボけた感じを出そう」とか、そういう「構成」を考えるのは結構好きなんですよ。やりながらよく考えるんですけど。

 

だが、絵ね。真剣に描くのが超大変。

だから、チョチョイと書いちゃうんですけど。

でも、絵もやっぱり大事なんですよね。

四コマはアイデアひとつで描けるところあるから、良い。

良いのだけど、それでもそれなりに手間をかけないといけなかったりする。

その手間が、だいぶめんどくさい。

わたしには親切さや、丁寧さが、あまりない。

めんどくさいから。

 

ただ、世の創作って、そういう部分がほとんど多いんじゃないかと思うんですよ。

パッと閃いたアイデアを元に、丁寧に丁寧に仕上げていく。

背景を描いたり、トーンを貼ったり、ペン先の太さにもこだわって描く。

大変ですよね。

私はそういうことあんまやってないんですけど。

 

だから私なんかは、パッと閃いたらパッと出しちゃうんですよね。

それで、あーもったいないなー、もっといろいろやってりゃよかったってなることが多い。

辛抱が足りない。

パッと閃いたもののために、じっくり作っていくのは、キツい。

 

今思ったのは、多分じっくり作ることは「閃いたネタのために」やるのでは嫌になるんじゃないか。

じっくり作ること自体に、何か目的を見いだせないと大変なんじゃないか。

 

https://tips.clip-studio.com/ja-jp/articles/705

 

素晴らしいですよね。

「唐突に激上手サラダ出そう」とか、そういうの良いなぁと思う。

「絵が描いてあるのは当たり前」でスルーされるような作業を、楽しんでるのが良い。

 

まぁ、楽しいばかりじゃなくもちろんいろいろ大変だろうけど。

楽しんでるのが素晴らしいのではなく、普通はめんどくさいとなる地味な作業に何か意味を見出せてるところが素晴らしいのだ。

 

最近、落語聞いてるんですけどね。

落語で感動して、それを友達に話したりする。で、私は話のあらすじを話す。

 

例えば「芝浜」

説明するのが大変なので、こちらをお読みください。

https://www.google.co.jp/amp/s/edokara.tokyo/conts/2015/10/31/316/amp

 

私は筋は話せる。どこに感動したのかも話せる。

「有名な話でオチは分かってるんだ。「よそう、また夢になっちゃいけねぇ」それを、こう酒を飲むよ、飲むよ、引きつけて、スッと離して、落とす、これが見事で」みたいに。構成の話ですね。

「本来の落語は読むもの、聞くものではなく、見るものです」とは桂歌丸の言葉です。

落語は筋を話して構成の話をしても不十分で、演じなければならないのだと思います。門外漢の発言ですが。

(まぁ正直、筋やどこに感動したかだけでも友達に話せる自分は多少はすごいという自負はあるが)

大変だ大変だ、と言っていたのはこの「演じる」という部分です。

これはもう、芸ということになる。

(筋だけ話すのも芸と言えば芸だけど、それとは別に演じるという芸はすごい)

 

芸はすごいですね。

 

私はもうさっさと出したくて仕方ないってなる。(そりゃ、みんなそうかもしれなくて、そこを我慢してるわけかもしれないけど)

俺が言う「俺の作品は分かりにくい」とは一体どういう了見だ?

「俺の作品は難しい」

「俺の作品は分かりにくい」

私はそういうことを言う。

なぜか?

別に深く考えてなかった。

テキトーな発言である。

あと、あんまりウケてないのできっと分かりにくいんだろうなという感じもある。

つまり「本当は良いもの」なのだけど、理解されてないという意味である。

だが、果たして本当にそうだろうか?

私の作品は、本当に「良いもの」なのだろうか?

「良いもの」だとは言い切れない。

そういうことについてちょっと考えると、まるで将来のことを考えた時みたいに、頭が真っ白になる。

つまり、問題が漠然としているのである。

はい。


まぁ、ちょっと好きなのよね。

「俺の作品は分かりにくい」って言うのが。

何度も言ってんな俺〜って気付いた。

お前それ好きやな〜、って。

ちょっとだけね。これ言うの好きかもしれない。

「俺の作品は難しい」

私はよく言うんですけど。

これを言うことで、薄い結界を張ってるような気がして。

電気風呂ぐらいの、触ったらピリッとする結界を周りに張ってる感じ。


「キヅミタの作品は難しい」と言う人もいるでしょうね。

だが、私はその人の言う「難しい」という「気持ち」が分からないわけだからね。

お前それ好きやな〜。

「その人が言う気持ち」って、私はよく言うんですけど。

好きなんですけどね。他人の気持ちとか。

(追伸:

好きとは言ったものの、それはドラゴンが好き、ライオンが好き、お化けが好き、みたいで、リアルに出会うと引いてしまう。

他人に乗り移りたいみたいなとこあるんですけど。

B’zの「今夜月の見える丘に」で、「例えば、どうにかして、君の中、あぁ、入っていって、イエーイ」って歌詞があるんですよ。

「その目から、僕を覗いたら、いろんなこと、ちょっとは分かるかも」と。

「愛すれば、愛するほど、霧の中、迷い込んで」

愛というか、興味である。

逆に「入っていただく」ということも出来るかもしれないな。

なんだったけ、入る方は。なんかそういう話がありましたよね。他人を自分の中に入れるやつ。そういうのいっぱいありそう。

ただ、自分か相手に入ったり入れたりするのは、あんまりよくないから、間に誰か一人、ラブホテルみたいな感じで挟んで、そこに2人が入るみたいな。。。

また物語の着想を得たぞ。

(追伸:

これが創作なのかもしれない


「俺の作品は難しい」

本当にそうだろうか?

難しいって、どうして難しいと言えるの?

難しくしてるきらいはあるかもしれない。

変にひねって、簡単な話を難しくして、いろいろごまかしたりとか、そりゃそんなのやりたくないけど、でも未熟ゆえにそういう失敗しちゃってるところもあるかもしれない。

かもしれない。


逆に「分かりやすい」ってなんだろう。

最近ニュースで「交通事故により何人かの子供が亡くなった」ということがよく放送されているけど、あれは分かりやすい事柄だろう。

つまり、可哀想で、憤りを覚える、ショッキングな話である。

「分かりやすい」の一つは「心動かされる衝撃的なもの」だろう。

ただそういう分かりやすいものに関しては抵抗がある。

それで人間が取り乱すのが嫌だ。

例えば、昔ですけど、私は母親が泣いたりするのが嫌だったんですよ。

泣く母親が嫌いだった。それは今も泣かれたくないのだけど。

別に私が泣かせたわけじゃなくて、まぁ人生でひどいことがあって、泣くんですけど。

「泣くな」と思う。

でも、私も普通に泣く時は泣くだろうからね。「泣くな」とは言えないんですけどね。

ただもう、「怒り」や「悔しさ」で泣いたりするのを見ると、浅ましいと思う。

ちなみにこの感覚、これを元にギャグにしたり、エロいものにしたりも出来るんですけどね。

ちょっと興奮してきた。

まぁ、それはいいんですけど。


要するに、私はそういう風に心を動かされるものが嫌いなんです。ショッキングな出来事で壊れそうになるものが嫌なんです。

まぁ、これは非常に、身勝手というか、まったく他人の気持ちを考えてない姿勢なのですけど。

もちろんそれで威張ってるわけにもいかない。


しかし、なぜ私は取り乱すものが嫌いなんだろう。

「弱いから嫌だ」というのは言える。

たまの「電車かもしれない」の歌声みたいな、情けないようなザマで、トロトロトロトロトロ〜っと、布団の中で泣く、あの感覚。

ちょっと興奮する。


「俺の作品は分かりにくい」

果たして何を以って「分かった」と言えるのだろうか。

自分と似てる人で、似てる意見であっても、まったく手応えのようなものを感じないことがある。

「言ってることは分かるが、感動しない」ということがあるのだ。

それは果たして「分かっている」のだろうか。

これは「分かる」ということと「感動する」ということを、同義に捉えている。

ただ、感動しても、その内容は人によって違うだろう。違うのに「分かってる」と言えるか。

私は太宰治の「人間失格」を始めて読んだ時、感動した。感動というか、衝撃を受けた。

どういう内容の衝撃かというと「こんな廃人になってまだ27歳って、人生これからどうするんだ?!」というものだった。

これは「分かってない」ですね。

「まだ27歳って、これから大変ねぇ〜」という風に感動したのだけど、人間失格で感動した他の人にこれ言ったら「分かってない」と言われると思う。

バカ話です。


「経験」。

大切な人を失くした経験、戦争の経験、いじられた経験、人を愛した経験、愛された経験、一番になった経験、頑張った経験。

心が動かされるというのは、経験とほとんど同じことだと思う。

つまり、私のこの考えはパンクあるいはロックの一種なのだと思う。

言葉や知識だけ知っても仕方ないという、生きることへの志向。

じゃあお前は生きてんのかって、そんなアグレッシブじゃないところが、多分、私が創作者ということなんでしょう。テキトーですけど。


何を言ってるんだろう。

こういう創作論みたいなこと語るとバチが当たる気がするな。


まぁ、なんか好きなんですよ。

「俺の作品は分かりにくい」と自分で言っちゃうのが。

中には「キヅミタの作品なんか全然難しくない、面白くもない、つまらん」という人もいるだろう。

俺はその「全然難しくない、面白くもない、つまらん」という「気持ち」が分からないからね。