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音楽のフォーマットについて

フォーマット(音楽の保存形式)は音楽に影響を与えます。考えたことを述べていきます。

 

まずジョン・ケージ4分33秒から話を始めます。

4分33秒というのは4分33秒間を3つの楽章に自由に分け、その間何も音を発さずに環境音(演奏される場所がコンサートホールであれば、空調のうねりや人々のざわめき、あるいは自分の心音など)に耳を澄ませるというコンセプトであるらしいです。

ここで注目するのは時間です。ケージは演奏者に時間を厳密に管理することを指示しました。多分それは、全楽章休止だからです。それまでの音楽は時間の指定を音符や休符でしていました。しかし、4分33秒にはそもそも音符も休符もないので、物理的な時間を指定するほかなかったのだと思います。これは楽譜というもののフォーマットと関わっています。

 

遠い昔に録音技術などありませんでした。そして人類は音楽を紙に書いて保存する方法を編み出しました。しかし、楽譜は最初から完成していたわけではありませんでした。西洋音楽の長い歴史の中で少しずつ発展して今の形になったものです。

さて、あるものを記録するには抽象化が必要です。ここで言う抽象化とは音楽の要素を抜き出すことです。では音楽とはいったいどういうものなのでしょうか?

音楽には時間の流れと音の高さという要素があります。ということは、時間の流れと音の高さを記録できれば、その記録から音楽を再生することが可能になるのではないでしょうか。そういうなんやかんやで時間の流れと音の高さを上下左右の二次元の座標で表したものが楽譜となりました。

しかし楽譜に書かれている情報はそれだけではありません。つまり、音楽の構成要素はそれだけではないということです。他に何があるでしょうか?

音楽には拍子があります(拍子がほぼ無い音楽もありますが、ここでは拍子がある音楽の話をします。お察しください)。拍子というのは時間の区切り方です。要は時間の流れのことなのですが、漠然と横に広がる時間よりも、もっと音楽的で特殊な時間の流れです。うーん、分かり難いなぁ。

拍子は音楽を構成する単位のようなものです。たとえば三拍子ならばトントントンの拍子で音楽が進行していきます。トントントン・トントントン・トントントン…、このひとかたまりの「トントントン」を組み立てていって音楽が作られるのです。いろんな音によって出来た「トントントン」を積み上げて行って音楽が作られるのです。それはまるでレンガを積み上げて家を作るようなものです。

 

(もしも拍子がなく、漠然と横に広がる時間の流れしかなければ音楽はどういうことになるでしょうか?先ほどのレンガの比喩でいけば、そこにあるのはレンガ以前の泥のようなものです。流動的な泥で作られた音楽。なんかガンジス河みたいで雄大ですね。そういう音楽のジャンルの一つにノイズがあります。また、日本の伝統音楽なんかもよく拍子がおざなりになったりします。西洋音楽にとって拍子(リズム)は音楽の構成単位なのでおざなりでは困りますが、日本の伝統音楽にとって拍子なんてもんはアバウトなもんでいいらしいのです。はぁ~よいよい)

 

寄り道しましたが楽譜の話に戻ると、楽譜はちゃーんと拍子を表すことができるようになってます。まず最初に3拍子なら3拍子、4拍子なら4拍子と指定して、小節という概念で時間の流れを分割するのです。

 

西洋音楽の伝統に反抗した奇天烈な人にエリック・サティという人がいます。この人の書いた楽譜には小節線のないものがたくさんあります。アバウト過ぎる~!いったい何考えてんの~???)

 

他にも楽譜で表せるものはあります。調とか速度とかです。

速度は時間の流れの一要素ですが、調は音の高さの一要素です。

調の後ろには調性というものがあります。調性というのは西洋音楽の根幹です。調性は音楽の偉大なるルールのことです。噛みしめれば噛みしめるほどに敬虔な念を抱いちゃいます。

うーん。実はあんまり詳しくないので自信はないのですが、調性ってのは文法みたいなものなのかなと思います。

例えば「I love you」という一文がありますね。英語の文法に則って書かれています。これが「You love I」とか「Love I you」では意味の通じない間違った文になりますね。ざっくり言ってこの「正しい/間違ってる」を判定する文章のルールが「文法」というものではないでしょうか?

すれば音楽にも「正しい/間違ってる」ということがあることになります。音楽の間違いということでまず思い浮かぶのは不協和音です。例えばドとソを同時に鳴らせば綺麗な響きが得られます。「本当に2つ鳴ってんかよこれ~?」ていうぐらい、「もうお前ら付き合っちゃえよ~」ってレベルの響きです。しかしファとシの場合は違います。「この二人は一緒に仕事させちゃいけない」みたいな響きです。ファがいる喫煙所にシが入ってきたら場が一瞬で凍り付きます。(もっとも、その凍り付いた空気を音楽に利用することもあります)

え~?でも音楽って自由だからいいんじゃないの~?ってなわけですけど、それは思想の問題なのでなんとも言えませんね。ただ、世の中には小さいころからこういう「正しい/間違い」を徹底的に教え込まれて、間違ってるものはどうしても受け付けられないという耳をお持ちの人もいると思います。そういう人にとってノイズまみれの現代音楽など、これはもう悪夢でしょう。自分にとって喜ぶべき自由が誰かを脅かす可能性があるという。。。おっと、この話はもうやめましょう。

とにかく、音楽には調性というものがあって、楽曲には調というものがあります。もちろんないのもあります。無調音楽です。「コラ!!毎度毎度有ると言った舌の根も乾かぬうちに無いものもあるとか!!どないやねん!!」という話ですが、常識は覆されるものなのです。。。

楽譜において調は調号で表します。シャープやフラットの塊を最初に書くことで表します。その理屈をここで説明するのはめんどくさいのでやりません。とりあえず、これまで見てきたように楽譜は音楽のいろいろな要素を表せるように発展してきたという話ですね。

 

考えてみれば音楽の時間と現実の時間はちょっと違うんですね~。音楽の時間は拍子によって区切られていることは話しましたが、その拍子の長さはその時その時の演奏によって伸びたり縮んだりするわけですね。そもそも演奏というのはだいたい人間がやってきたわけですから、「1小節はぴったり3秒で区切るように」みたいなこと言われてもそんなきっちり区切れるほどの技術を持った人なんてロボットでもあるまいし、なかなかいません。

だいたい偏屈じゃないですか?「1小節はぴったり3秒!早すぎても遅すぎても失敗!」ってわざわざ指定する作曲家なんかきっと嫌われますよ。まぁ、ジョン・ケージ4分33秒ぴったり指定したわけですけどね。きっと偏屈な人だったんですかね。

拍子という音楽的な時間から物理的な現実の時間に移行したこの作品ですが、その理由は先ほども言ったようにそもそも音符や休符がなかったこと、、、と私は予想しつつそれで音楽がどうなったかということに話を進めていきます。

なぜ物理的な時間を指定したか?もう一つの大切な理由は「音楽のコントロール」ということだと思います。例えばこれが「3楽章に渡り無音、奏者は時間をアバウトに決めて心の赴くままに始め、そして終わる」という作品であれば、そのコンセプトは大きく変わったものになったと思います。それはなんだか日本的な「つれづれなるままに…」という趣をかんじますね。

しかし、ケージは時間を厳密に区切りました。これってまさしく西洋的!すごく客観的じゃないですか?拍子というものが演奏者において主観的なものであれば、物理的な時間は我々人間が唯一共有する客観的な時間です。(アインシュタインがそれは違うよって人類に教えてくれましたがここでは無視!無視!)

音楽の外部にある物理的時間を厳密に指定することで!?音楽を最低限コントロールするというケージ渾身のエクスペリメンタルな一曲!!アツい!!噛みしめれば噛みしめるほどにアツい気持ちになります!!

そのアツい一曲をケージはなんと楽譜というフォーマットで発表しました。なぜでしょう?あまりにコンセプチュアルな音楽だから文章でも十分に説明できます。それに、あえて4分33秒を3楽章に分ける意図も謎です。

これにはきっと何かちゃんとした意味があるのでしょう。そしてそれは楽譜というフォーマットと深く関わっていると思います。

うーん。実は私、ケージについていろいろ調べたわけではないんです。ただ単に4分33秒を題材にいろいろ妄想して、それをこの記事に書いてるんです。ここまで書いたことは全部私の妄想かもしれません。

ですが、妄想を続ければ、4分33秒という楽曲が楽譜によって書かれた意味はこういうことだと思います。

 

*************(妄想)************

ケージの中には「音楽=楽譜」という等式が成立していたのではないでしょうか?

楽譜こそが音楽であるだなんて、なんだかとってもプラグマティック!実にアメリカンな割り切りですね。

音楽の実態は何でしょう?物理的な空気振動でしょうか?しかし空気振動はすぐに消えてしまいます。消えないようにその現象を何かで記録しなければなりません。そして保存の必要性から楽譜が生まれました。そして、その楽譜がこそが音楽の実態であるという考え方。倒錯だぁ。。。ドキドキしますね。

ほっ!4分33秒で、ケージは音楽というシステムそのものを見据えていた。音楽というシステムの外部(物理的時間、環境音)を導入することで音楽の新しい姿を提示した。

ケージは4分33秒を3楽章に分けた。そしてその楽章を演奏者の自由に分割させた。だがしかし!!4分33秒という時間はきっちり守らなければならない。たった1秒、過ぎてはダメだし、早くてもダメ。従来の音楽では考えられないほどの自由でありながらも、最後の一線は、厳密なルールによって、支 配 さ れ て い る 。

倒錯だぁ。。。SM的バイブスを感じるぜ。。。

そしてそれは楽譜というフォーマットで書かれている。従来の方法で、従来の音楽をひっくり返している。非常にコンセプチュアルな音楽を、楽譜という「音楽の現身」で発表する。音楽の現身!そうすることで、支配のルールをよりくっきりと浮かび上がらせる。縄で縛られた音楽の肢体を浮かび上がらせるのだ!!

(ケージがSMやる変態だという話は聞いたことないので、これは全部私の妄想です。ぽかぽか)

 

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フォーマットを擬人的倒錯的に見るという視点を提示しました(これが何の役に立つか分かりませんが)。

さて、フォーマットの話を続けます。

 

楽譜が誕生する前から音楽を伝えるフォーマットが他にもあります。音楽の演奏などを実際にやってみたり、口で伝えたりして仲間や弟子などに教えるという方法です。それが学術的になんと呼ばれているか知らないのですが、ここでは私が名前を付けて「伝承」と言うことにします。

楽譜と伝承はまた違うものです。楽譜は人から紙というメディア(情報を伝える仲立ち)を経て人に伝わるもので、伝承は人から人へ直に伝わるものです。

楽譜は一度書かれたらある程度の確定性が生じますが、伝承はその過程で伝えられるものの変形がしばしば起こります。そして民族音楽などはそのようにして発展していくものだと思います。伝承というフォーマットの良い点はこのように豊かに発展する余地のあることです。悪い点は主観的であり古いものがどんどん消えていくことです。

楽譜は客観的に分析でき記録を保持できますが、伝承よりは豊かさが失われています。

フォーマットというのはこのようにいい面もあれば悪い面もあります。人類はどちらか一方だけではなくそれぞれの良いところを掛け合わせ悪いところを補う形で音楽を連綿と伝えてきました。感動しますね。

 

フォーマットとはメディアとともにあります。紙が発明され楽譜が書かれるようになりました(その前は石板に書いてたりしたのかな?)。

そしてお待ちかね!人類は一生懸命発展してレコードやテープやCDが発明されました。(他にもソノシートやMDやレーザーディスクなんてものもあります)

それらメディアのフォーマットはいろいろあります。これら新しいメディアは一枚岩ではなくレコードなどはアナログ、CDなどはデジタルと言って区別されたりします。

 

アナログのことは知りませんが、デジタルのフォーマットはWAVやmp3が有名です。デジタルというのは0と1の情報がどうたらこうたらでうんたらかんたらです。詳しく説明するとボロが出るのでやりません。しかしややこしいですね。「デジタルのフォーマットって何やねん?デジタルはCDじゃないんかえ?」とかね。うーん、違うけど説明がめんどくさいな。まぁ、いろいろ発明されたおかげで便利になったけど世界は確実にややこしくなったというわけですね。

私が注目するのはこれら新しいメディアの誕生のおかげで新しい技術がいろいろと必要になったということです。

その技術は「録音」、「ミックス」、「マスタリング」です。

録音はなんとなく分かるとして、ミックスとマスタリングとは何なのでしょうか?

一言で説明すれば、ミックスはいろんな音源を混ぜ合わせて一つの音源にする作業です。そしてマスタリングはミックスして出来た一つの音源を最終的にいろいろ調整する作業です。

なんでそんな難しそうなことをしなきゃいけないのかというと、そういう作業をしないとWAVやmp3という新しいフォーマットとして世に出せない仕組みになってるのです。宿命的にそうなっているのです。人間という愚かな生き物が「今日より明日はもっと幸せになろう」と一生懸命頑張って一つ一つ壁を乗り越えていっても、すぐにまた新しい壁が出てくるのです。人類はそういうことをこの地球上に誕生した瞬間からずっとやってきたのです。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、いや先祖のみならず、今まで存在してきた人間みんなそうなのです。なんて不毛なんでしょう。私たちはこの不毛なレースから抜け出すことが出来ないのです。

 

ところで、現代の音楽を取り巻く状況はとても面白いことになっています。インターネットの発達によって世界中のいろんな人、プロとアマチュアが入り混じったたくさんの人の音楽を知ることが出来るようになりました。また、逆に自分の作った音楽をサウンドクラウドニコニコ動画など、インターネット上のサービスを利用し全世界に発信できるようにもなりました。

ネット上で流通する音楽の主流フォーマットは、ミックスやマスタリングという技術が必要なWAVやmp3です。

過去、楽譜がメディアの主流だった時代には録音やミックスやマスタリングの技術を習得する必要がありませんでした。その代わり楽譜を書くには楽典という知識が必要でした。また、楽譜は音楽と密接に結びついているので、和声学や対位法などの音楽理論の勉強も必要でした。(もちろんそんなものなくても音楽はできます、それがいつの時代で、人が住めるどこでも、そこに人間がいる限り)

伝承の時代の音楽にいったい何が必要だったのでしょうか?それは音楽とは直接関係のない人間に対する気持ちのあれこれだったりしたかもしれません。

 

今はパソコンとソフトさえあれば一人で音楽を作り、なおかつそれを全世界に発信できます。ありていに言って、音楽理論は昔ほど必要にならなくなったのではないでしょうか。

音楽理論が昔ほど必要でないというのはどういうことでしょうか。ひとつ言えるのはドビュッシーがピアノやオーケストラで表現しようとした揺らぎを「リバーブ」や「ディレイ」というエフェクター(音源を変化させるもの)で表現したり、拍子という時間の積み重ね方を「サンプリング」という手法でより直観的にできるようになったのではないかということです。

つまり、理論に頼らなければできないことを、発展した技術が ”理論素人でもできるようにした” のではないでしょうか。

そして音楽が伝承という形でコミュニティの中でゆっくりと発展した、その速度を超えて、個人の音楽がインターネットに乗って世界中に伝播し相互に影響を与えています。

ああ、なんて世の中でしょう。

楽譜の時代に必要だった理論。それが今では、録音、ミックス、マスタリングなどの新しい技術にとってかわられてしまったのかもしれない。(だが、世界にはまだ伝承の音楽があり、楽譜の音楽があります。それらはこれからも脈々と受け継がれていくことでしょう)

 

(私の妄想の話ですが)ジョン・ケージ4分33秒で楽譜というフォーマットをヒーヒー言わせました。

それでは現代、いったい誰がWAVやmp3というフォーマットをヒーヒー言わせるのでしょうか?

楽しみですね。