背伸びをしたらなにもかもお終いよ

音楽の話、自分の考え

とりあえずなにか話したい

ブックオフでデザインに関する本を数冊買った。それについて解説すると、私はこう思ったのだ。


今私が見てるもののほとんどは人間(誰か)の手によって作られたもので、そこには常にデザインがある。

ハンガーにしろ、テレビにしろ、エアコンにしろ、ドアにしろ、すべてデザインされたものである。「なんでそうなったのか」ということについて、私は何かを知りたいと思った。


人々がいて、村がある。

人々がいれば、そこにはなにがしかのルールがある。風習がある。

一見、何の意味があるのか分からないような、そういうものもある。例えば、マナーや、礼儀というものは、一見無意味なものに私には見える。上座や下座の概念とか、正装など、そういうのは、どうでもいいと思う。

タブーも、私にとって無意味なものがある。染髪やタトゥーを禁止するなどである。勝手にさせればいいだろと思う。

だが、これらには深いところでなんらかの意味があるのかもしれない。だとしたら、その意味とはなんなのだろうか。

染髪やタトゥーを禁止することはほとんど無意味だと思うが、「何かを禁止する」ということは無意味ではない。「なぜ禁止されるのか?」という問いも無意味ではない気がする。

染髪やタトゥーを禁止するということは、一つは身体を改造することについての嫌悪感があると思う。

人間の体、とくに女の体が、異常に、歪められて、例えばつぎはぎとか、質感が無機質になったりとかして、それが映されると、エロいと思う。

なんでエロいんだろう。

これは私の嗜好なので、共感できない人もいるかもしれない。でもこれはわりとよくある嗜好だと思う。


論理で考えて、うまくいくことと、感覚で感じて、うまくいくことがあって、論理と感覚は、得意なことが違う。

それは論理で考えればもっと面白くなったし、それは感覚で考えるべきだったのではないかしら、ということは、あります。

気持ち悪さなんかは、論理でやろうとすると、無残な結果になったりするのではないか。

それはしかし、単に論理のひねりが足りないだけかもしれない。もっと徹底的に論理を重ねると、論理でも気持ち悪いものができるかもしれない。どこまでやればいいのかとかはまだ分からない。


(しかし、論理と感覚を分けたけども、実はこの二つは同じ(あるいは似てる)ものじゃないかという気もする。)


エロい考えが私には満ちている。エロい想像は毎日する。

もっとこのエロいエネルギーを、研ぎ澄ませて、水のレーザーみたいな感じにしたい。

切ない。


自分の中に、子供の自分がいて、そいつをいじめたい、みたいな気持ちは、あります。


SかMかでいうと、自分はSだと思うけど。

SはサービスのS、というけど。もしMが欲しがってたら私に何ができるか、とか、どうやって喜ばせようかとか、考えるもの。

想像するけど、難しそうですね。やったことないし。

それは一種のメシア志向というか、教祖願望みたいな感じだ。

私が罵ったり、叩いたり、もちろんそれは冷徹な管理の下で責任を背負って行いたいのだけど、そういうことをすれば、喜び、救われる人がいるとすれば、やってあげたいと思うのである。

ただ、中には救いようのないバカもいるかもしれなくて、そういうのを救うのは無理だけど。

本当に、救いようのないバカは、無理である。

SMがめっちゃ上手い人とかいるだろうけど、私はやったことないし、やっても下手だろうから、なんかSM上手い人はすごいなって思いますね。


自分の中の小さな子供が、傷ついて、夜中に布団の中で泣いていて、それをもっといじめて、分からせて、何を?この世界は残酷で、自分の思い通りにはいかない、ということを、分からせて、ひとつずつ分かって、今だけかもしれないけど、痛みは薄れるかもしれないけど、今は傷だらけになって、分からされるということが、気持ちいいというのは、あるかもしれませんね。

これはMでしょうな。私です。


目の前の他人と、自分が、違う人間だということを弁えるのは、礼儀だとして、私はなるべく礼儀正しく生きていこうと思ってて。

ただ、愛はそういうのを、越えるっていうか。

目の前の人が、自分と同じ傷ついた子供だと思って、看做して、同じになって、その子をいじめてあげるというのが、愛だとしたら、それも愛だと思うけど、それはもう、めっちゃ難しい。

だから一人で、創作とかしている。

それが愛のすべてではもちろんなくて、ひとつの愛に過ぎないだろうけど。


食べ物で遊ぶのはマナー違反ですけど、エロスで遊ぶのはどうでしょうか。


遊びとは?


遊びには無意味なことが多いですけど。


ところで、無意味っていうのは、意味にフォーカス当ててるので、例えナンセンスやっても、それは意味の領域から抜け出せてはいないわけですね。

意味はあくまで意味の領域からしか判断できないのかな。

意味の領域?


眠れない夜に書き散らすこと多いな。


意味というものを無視したくてナンセンスやっても、ナンセンスって結局「意味ありき」のもので、つまり表がなくなれば裏もなくなるわけで、意味を無視したくても結局は意味から完全には自由になれないのではないか。


だからなんだ?


この、「孫悟空はお釈迦様の手のひらで踊らされていたのでした」的な話、自意識とかでよくありがちなパターンじゃないかしら。

自己言及ってやつか。


どっから手をつければいいんだろうなぁ。