背伸びをしたらなにもかもお終いよ

音楽の話、自分の考え

究極の選択!? 自分が創作をやめる or 誰かが創作やめる

小説を書いたり、作曲をしたりと、創作をしてる人向けにまたありえない問題を思いついたんですけど。

自分が創作をやめなければ、誰かが創作やめなきゃいけないっていう状況があったとしますわな。

で、その誰かが、「いったい誰なら自分は創作やめるか?」って問題なんですけどね。

まぁ普通にそんな状況ありえないんですけど。

 

あなたの家に悪魔が来ました。

悪魔「お前、〇〇ってクリエイターを知ってるか?」

あなた「知ってます」

悪魔「悪魔的現象でやつは才能を失ってしまい、もう作品を作ることができない」

あなた「なんですって」

悪魔「しかし、お前がもう二度と作品を作らないのであれば、そいつは再び才能を取り戻すことができる」

あなた「代わります!代わらせてください!」

 

さて、〇〇とは誰でしょう。

 

また自分の話をすれば、私は別に誰にでも譲ってあげられるかもしれない。

それと関係あるのかどうか知らないけど私には「この人が作品を作らなくなったら悲しい」と思う人がいない。

そもそも「かけがえのないもの」という考えが希薄なんだと思う。

それはつまり、想像力の欠如とも言えるだろう。

あるいは共感力だろうか。思いやりだろうか。とにかく、何かが欠けている。

想像力の欠如というのはつまり、大切なものを失うことが想像できないのである。

共感力というのは、他人に対し自分と同じくらい大切な何かを感じることだと思う。

いや、私もきっと共感力はあるけど、自分を大切に思ってないのだ。だから自分と同じくらい大切と言っても、別に大切だとは思わないのだ。

私は至極真っ当に無価値なのだが、そう思うのは私が忘れっぽいことに起因している。

思うに、人間は普通「自分に価値がある」ということを覚えているのだが、私はそう思っても忘れてしまうのである。

現実には誰もが無価値である。なぜなら人間はみんな他人同士であり、相手のことがいまいちよく分からないからである。

ニュースを見ればいつも誰かが大変な目にあっている。それを見て大きな悲しみを感じることもある。だがそれで生きていけないほどではない。結局は自分じゃない他人だからである。

往々にして他人の気持ちを感じることができないので、他人にどれくらいの価値があるのか分からない。だから無価値と同じなのである。それはすなわち知らない外国語を読んでも無意味であることと同じである。

これを読むと、私のことをとんでもないバカだと思う人もいるかもしれない。なんだかそんな気がする。自分が暗渠を彷彿させる愚者であるような気持ちだ。

それというのも、私は他人が普通に感じている何かを感じる能力が欠けているのではないかいう気がするからである。私は人の気持ちが分からない。そんな私はゆえ他人からみれば浜に打ち上げられたクジラの死体の瞳の濁りのごとき淀んだ存在に思われるのではないかと憂慮する。私はまるで泥人形である。

いや、この私の無感覚こそが正しいという思いもある。これ以外に想像ができないからである…。

 

ところで、私が創作機会を譲ってあげられるのは、例えば私から音楽をとっても漫画を始めるだろうからで、その私から漫画をとっても小説を書き始めるだろうからである。私には代わりがたくさんある。それらすべてをとられるとすれば辛いからちょっと考えると思う。(最悪そうなればキャンプとか始めるか)

私の人生があと50年だとして、そのうちの30年分くらいは私の創作に予約されている感がある。多すぎる。私も他人のことだって興味がある。

でも他人のことを理解しようとするのはしんどい。新しいものを理解しようとするのはしんどい。

例えばspotifyで初めて聴くプレイリストで、「お?」と思う曲は知ってる曲のカバーとかが多い。自分は別に新しいものが好きではないのだと思う。

 

他人の事はしばしば分からないが、自分の事だって分からないことが多い。

 

追記:

私がなぜ人の気持ちが分からない・自分の価値が思い出せない泥人形となってしまったかというと、思い当たるのは中学の頃に「よしひとつ自分はこっちの方向(今となっては泥人形)でいってみよう」と思ったからである。その頃わたしは「気持ち」とか「不思議」とか、そういうものは無価値だと思っていて、そんな曖昧なものを覚えるよりは辞書や百科事典に書かれてあるような情報をたくさん覚えたいと思っていたのである。そしてマシーンみたいな人間になってしまった…。