背伸びをしたらなにもかもお終いよ

最近は雑記になってしまっている

年明けくらいまで黙ります

来年まで黙ります。黙るといったって、このブログの更新を辞めるだけで、ほかの活動は引き続きやるけどね。

このブログはTwitterやめてから頻繁に更新するようになった。Twitterの代わりですね。

 

ああ、辛い。辛い。

また仕事でミスっちまった。だから辛いのは当たり前だ。

やっぱりね、こう辛いと、良い百合小説が書けるんじゃないかな。

辛い。悲しい。

心中ものはね。

別に魅力は感じないな。

私が心中もので知ってるのは渡辺淳一失楽園だな。ほかに知ってるのあったかな。

映画で心中。知らないな。小説は他は知らない。音楽、夜に駆けるは心中ものらしいじゃん。落語で心中?人情噺であるかな?たぶんない気がする、人情噺はハッピーエンドって感じだろ。曽根崎心中は名前しか知らない。そういえば映画は京極夏彦のやつとかあったね。あとなんか昔心中の小説読んだな。

昔は別にそんなことなかったけど、今は心中とかなんかあんまり好きじゃないな。もうこっちは多少若くないからひがんでるのかもしれないね。

書いてみたいな、心中。でもあんまりよくないのかな。

Twitterとかでも、ぜんぜん興味のない話題なのにみんなが言及してる問題だからいっちょ噛みしちゃうみたいなことあるじゃん。よくないよね。どうでもいいことに関しては黙ってないといけないんですよね。

心中は私にとってどうでもいいテーマか?

まぁだいたい心中の物語なんか感動ポルノみたいなもんでね。もっとも私、ポルノは結構いろいろやりたいからさ。どれだけポルノとしての心中をうまく書けるかみたいなのは、やりたいね。

頑張れるのか私?

良いよな、ポルノは。感動的なポルノを書きたいね。

やれるのかな?ではまた。

家を片付けるのが嫌なの何?

なんかこう、いろいろ創作してるんだけど満足いかねぇんだよな。

いろいろ作ってはいるんだよ。今年はさ、三月くらいに一曲出して、それからボイロ落語だろ、ボイスロイド劇場だろ、そっから日本少女幽霊やって、で、自分のを二曲出して、それからボイロ小説書いてんだよな。あとボカロ雑感とかあんまり更新できてないけどやってるし。あとキチガイ四コマ漫画も描いたなぁ。

結構いろいろやってんだよな。でも満足いかない。なぜか?ひとつは無計画にやってきたからでしょうな。もうやりっぱなしだからな。終わった達成感も忘れちゃうし。もうなんか残るもんが薄いね。穴の開いた甕に水を注ぐみたいなもので、ドバドバどっか行っちゃう。

いや、今までだって楽じゃないよ。日本少女幽霊とか大変だったぜ。あのトリッキーなオケに歌詞を載せるとか、まぁ大変だったですよ。

もう生き急いでんだよな。いや、まだまだだよ。まだまだ私はこんなもんじゃないけどさ。ただやりっぱなしじゃ、なんか自転車操業みたいになっちゃうんだよな。満足できることがないから、また作ろうとするだろ。でも作るのは大変で、どんどん疲弊していくというね。

ちゃんと計画立てて、生活もしっかりやらないとダメだな。できることは限られているんだ。

生活だよ。

家を片付けるのが嫌なのなに?

今日もさっき一念発起してトイレ掃除したんだけどさ。トイレ掃除自体は5分もかからないのよね。やればすぐなんだよ。でも何週間もほったらかしにしてしまうという。

ペットボトルだってめっちゃ溜まってるし、それからコンロの周りね。コンロの下に敷く銀のなんか、車の日差し除けみたいなのあるじゃん?あれ新しいの買ってるんだけど、取り換えるのがめんどくさくてさ。もうカビが生えてえらいことになってるんだけどね。

やっぱり実家もクソ汚いからなぁ。クソ家から出てきた氏も育ちも悪い野郎一匹なわけで、まぁ因果は巡るというかねぇ。

まずね、なんかこう同居人でもいればと思うけどさ。

飯を作るんでも、洗濯機を回すんでも、それは全部自分のためだけなんだよね。なんかもったいないよな。家事なんてさ、ほかの人の分もいっしょにやろうと思えばできるわけでしょ?米を2合炊くのも4合炊くのも手間はそんな変わらないよね。ただもう私はそういうおすそ分けができる人が誰もいない野郎一匹なので、もうなんかセルフ・ネグレクトしちゃいがちなんだよね。

ただ人間関係というのはクソだるいわけでね。なぜダルいかその理由を説明いたしますとね、まず一回繋がった因縁はなかなか切れないものであるというのがありますな。

仕事だってさ、バイトだって一回始めたらちょっと嫌なことがあっても続けちゃうじゃん?そりゃ中には嫌なことは嫌だと言う人もいるしすぐ辞めれる人もいますが、私なんか何も言わず続けちゃう方なんでね。割としんどいですね。

だから誰かとかかわりを持ってね、ましてや一緒に住むなんてことをし始めた日には、もう、ダメになってもずるずる続けるほかなくて、それを予想したら完全にめんどくさいですね。無理っすわ。一人で生きます。

生活を本位に置くというのは難しいね。いるじゃん、ゲーム中毒で生活破綻しちゃってる人とか。ゲームは面白いからね。そればっかりやって仕事や生活に支障をきたしてしまったりさ。

ハマるというのは私にも覚えがあるからね。酒だってね、私は次の日仕事だったらあんまり飲まないようにするくらいの自制心はあるけど、でもたまに休みの日で立てなくなるくらい飲むこともあって、生活破綻者はそういう休みの日にやっちゃうことを平日にやっちゃってるだけの話でね、気持ちは多少は分かりますよ。

生活にマジメになれないんだよなぁ。生活は大事だってのは薄々感じてるけどさ。なんかこう、変身願望的なものがあってね。まぁこのブログ書いてるのだってある種、生活からの逃げみたいなところあるんだよな。

やっぱりこう自分を大切にできないみたいなところに繋がってる話なんだろうね。だからさ、もう私は変身願望だよな。もう私と言うね、野郎一匹のしけた生活なんかより、創作という華々しい、面白キチガイのキヅミタ坊やであることの方が楽しいんでしょうね。

ダメだよ自分は大切にしないと。良い仕事できないよ。

ちくしょ~。

私が創作で金を受け取らない理由が判明

私が創作で金を受け取らない理由は年末調整で会社に副業収入を申告したくないからでした。他にもいろいろあるがそれひとつで十分な理由である。

自分の創作で金を稼ぐと言うのも面白い経験だと思うし、いつかやってみたいと思っていたけど会社に申告する義務があるなら嫌だな。

なので、私に金を払いたいファンのモヤモヤをどうするか考えてみようかな。

まぁパッと思い浮かぶのは募金だよな。私が感心のある出来事や事業などに対し、私の作品に金を出すと思って募金をしてもらう。

しかし、まぁこれも細かいこと考え出すとまた問題があってね。

例えば、私が稼いだ金をどう使うかというのは、それは私の自由であるわけで、私の金を私がどこに募金しようがすまいがそれは私の勝手なわけですね。

ただ私が金を受け取る代わりにとある組織に募金しといて下さいというのは、金だけに注目すれば別に私が募金するのと変わらないけど、でも私以外の誰かが募金するという行為を行うわけじゃん。

私の作品を誰かが金を払って買うというだけの話に、募金とか寄付が絡むと、話がややこしくなる気がする。

ただややこしいだけで無害かもしれなくて、別に無害ならいいかもしれないけど。

まぁでも募金とかは自分で選択してやるべきことだと思うので、

いや、どうでもいいのかな、こんなことは。


他には何か考えられるかな。

例えば私の音楽に金を払いたいって人は、私の音楽が好きかどうかは知らないけど、とりあえず音楽は好きなんでしょうね。

対価として金を払いたいってことは、フェアなことでもあるからね。

前も言ったけど金は便利だ。感想なんか言うより金を払う方が楽だったりする。感想言うの大変だからね。

ある仕事に対価を支払うのはその世界が長続きしたり健全であるために必要なことだと思う。その世界を愛するならばそういうことをやっていかなくちゃならない。

で、こっちが金を受け取るつもりがないなら、その世界の健全化の他の仕事をさせるということが、モヤモヤを解消することになるわけですね。


私が影響を受けた音楽を聞かせるとかどうかな?

金を受け取らない代わりに、私が影響を受けた音楽を聴いてみて下さいとか。

あるいは私以外のボカロPの音楽も聴いてみてくださいとか。

それもまた仕事なわけですね。こっちも他人を仕事させることができたら、つまり影響を与えられたら、それなりに嬉しいからね。

Bandcampで、フリーダウンロードでアルバム出して、説明文に「金を払いたくて残念ならこの音楽を聴きなさい」と、いろいろ音楽を並べてみようかな。

そういうのもいいよね。

「音楽聴かせたい」というのも欲求の一つであるからな。

まぁ大概他人の家で見るおすすめの動画はクソつまらんわけで。無理矢理にでも見ろとかさせるのはよくないのだけど。

でも対価として見てもらうのはいいよね。

どうでしょう。

節度ある飲酒を心掛けたい

もうカッコつけとかいいから節度ある飲酒を心掛けたいね。

二日酔いもまた乙なもんでここでもういっちょ迎酒なんてぇのが終わってる酒飲みかもしれねぇけども、そいつは流石に私はごめん被りますわ

だいたい一人で酒を飲むんだけどさ、いやもう私は酒強くなくて良いよ

もう歴然としてるもの、酒飲まない方が調子いいもん、例え七%のレモンサワー一缶でも飲むより飲まない方が調子いいからね

今日もまた飲みすぎて、吐きこそしないけど今辛いっつーの

悪い唾が無限に湧いてくるんだけどさ

困ったもんだね

いやもう、日本酒でいえば多くて二合くらいにしとこう

昔より確実に飲むようになったね、強くなるもんだな、昔は350のビール6本セットを全部飲むみたいな先輩の話を聞いて酒飲みだなと思ってたけど、今じゃ私もそれくらいは飲めなくもないからな

節度ある飲酒、できるのかね、できなきゃアル中だな

問題は節度ある飲酒じゃ楽しさもそれなりにしかならないと言うことなんだけどな

でも、今の苦しみと飲んでる時の楽しさを比べたら、毎回やっぱり割に合わねぇと思うね

なんか酒を分解するのは二段階あって、うろ覚えだから話半分で聞いて欲しいんだけど、まずアルコールはアセトアルデヒド(?)ってのに分解されて、次にそれが水に分解されるんだってさ

で、アルコールをアセトアルデヒドに分解するのはうまいけど、アセトアルデヒドを水に分解するのは下手とか、両方うまいとか両方下手とか、下戸にもいろいろ種類があるらしいんだな

多分私はアセトアルデヒドを水に分解するのが下手な体質なんだと思う、だから後から辛いんだな

なまじアルコールをアセトアルデヒドに分解するのはパッパと出来るから、飲んですぐもう限界みたいなシグナルは起きないわけで、悪いもんが渋滞みたいに溜まってから「飲み過ぎだバカ」と言うことになるんだな

まぁ検査して測ったわけじゃないからこれは自分がそう思ってるだけなんだけどさ

腹も痛くなるしよ

今脂っこいもの食うとどうなるんだろう

なんか脂っこいもの食いたいんですけど

あとサイダーが飲みたい

飯もさ、私は馬鹿みたいに食うよ

酒飲みは飯食わないってさ、あれは飯食う腹のスペースを酒で埋めちゃうわけだね

医学的にはどういうことなのか知らんし間違ってるかもしれんけどさ

まぁ酒飲んだら飯いらないみたいなのはありますよね

私の場合は飯バクバク食うからな

別に一日にそう飯食わなくてもいけるっちゃいけるんだけど

多分私は何かに満足するのが壊滅的に下手なんだと思う

飯の食いすぎにも困ったもんがあるね

節度は大事だよマジで

いやもうやめろよマジで私

まいど自分のことバカだと情けない気持ちになる

小さなことに満足したい

やはり私と言う人間には何か欠けてるのだろうな

それを埋めなきゃ、飯や酒で埋めようとしてもダメなのかも

まぁ、元気出していきましょう

数学やったら謙虚な気持ちになった

問題:

5歳の子供100人と、30歳の大人100人がいる。この2組の全員が生涯をまっとうしたとして、確率的に平均寿命が高い組はどちらか?

 

この問題は私が高校時代に授業で国語教師が話してたもので、「30歳の組の方が平均寿命は高くなる」らしい。理由はなんか言ってたけど深く理解したわけじゃなかった。

で、なぜなのか考えたけど、自分の思考が酔っぱらいの千鳥足みたいにあっちへいったりこっちへ行ったりでダメだった。

情けねぇ。

三時間くらい考えたけど、自分がいかに数学について知らないかということを分かったし、また要領の悪さに悲しくなって結構落ち込む。

でもまぁいいことだと思う。謙虚な気持ちになれて、しかも誰にも迷惑がかからないんだから。

 

この問題は0歳の人と100歳の人どっちが長生きするかって問題に置き換え可能だと思う。で、0歳の人が100歳の人より長生きするには少なくとも100歳以上生きなければならない。100歳の人は100パーセントの確率で100歳以上生きる(当たり前だけど)。でも0歳は100歳まで100パーセントの確率で生きるわけじゃない。だから長生きする確率は100歳の方が高い。

っていうのが国語教師の言ってたことだと思う。ここに来るまでに余計なことを考えてた。年齢と死亡率の相関とか。そんなの別に考えなくてもよかった。関係ないことに時間を使うと落ち込む。

でもまだ不足で、これを数学的にどう説明すればいいのか分からない。

なんでこんなに落ち込んでるかというと、仕事でもよくこういう関係ないことに時間を使ってしまったりするからだ。そのたびにもう二度とこんな間違いはしたくないと思うけど、でもまたやってしまう。

落ち込むねぇ。

 

数学はすごいですね。

「みんな私のこと創作する便利屋だと思ってないか?」という意識

「みんな私のこと創作する便利屋だと思ってないか?」という意識、芽生えることがあります。こっちは大変な思いをして創作してるのに、みんなそれを当たり前のように受け取って、何も言わずに終わる。なんだよ、なんの対価もないじゃないかと。私を舐めるなよと言いたい。

芽生えたところでそれは一種の被害妄想だということは想像することに難くない。要するにこれは「もっと私をちやほやしてよ」とか「もっと私の作品に影響されろよ」ということでしょう。それに対し、まず私が創作したものなど多くの人にとってはどうでもいいものなのだという事実がひとつ。それから例え私の創作物を見てなんらかの感動を起こした人のうちそれで何かのアクション、いいねを押すなどをする人は一握りということがひとつ。さらに実は「君の作品よかったよ」みたいなメッセージを送信している人はいるけどこっちがそれに気づいてない・もしくは気づいた上で無視しているというのもよくあることですな。

でも芽生えるものは芽生えるので、じゃあどういう意識を持つように私はしているかというと、「私は与える側だ」という意識ですね。

この「こっちは与える側」というのはもともとは立川談志が言ってたことです。もっとも私の場合はその言葉尻だけ受け取って私なりの意味で使っている。じゃあ、いったい私はどういう意味でその言葉を使っているかというと、「私が完全に正しい」ということですね。

私が完全に正しい。それは他の誰かによって私の正しさを保証してもらわなくてもこっちで勝手に正しいということです。つまり、私の創作は他人の評価をまったく必要としない。「みんな私のことを創作する便利屋だと思ってないか?」の「みんな」を不要にしちゃってるんですね。要するに、「みんな」なんかどうでもいいところでやってるのです。

今日も飯を買いにいくついでに歩きながら考えたのですが、例えば私が他人を喜ばせるものを作れるとして、なんで私がそんなものをわざわざ作らないといけないんだ?という話ですよ。「キヅミタさんあなたの作品は最高ですこれからも私たちを楽しませる作品を作ってください」と泣いて頼まれればまだ考えるが、現状私が誰かのために創作をする義理はほぼない。今現在は頼まれごとがひとつと、こっちが勝手にやった世界に対して創作する約束が何点かあるので「義理はほぼない」と言ったけども、まぁでも究極的には義理などない。

仮に「キヅミタの作品はいいね」という経験があったとすれば、それはこっちが勝手にやったことに対し、そっちが勝手にいいねと思った奇跡でしかない。

じゃあ私はなぜ勝手に創作をするのかと言えば、まず何もしないのはもったいないからというのが一つ。それから創作をやってたのにウケないからってやめるのはなんか負けた気がして嫌だというのが一つ。それからなんだかんだで私は面白いものを作れる才能があるというのが一つ。創作したらなんか嬉しいというのが一つ。など、まぁいろいろあります。

ということで、私の作品はみなさんがどうであろうと関係ない。これからもお互いどうぞ勝手にやっていきましょうということです。

 

本当かな?

本当に私は他人なんかどうでもいいと思っているのかな?

嘘やよ~!他人のこと気にしないなんて無理無理!

ここで今まで語ったことは理想の話なんよ。できるだけこういう精神でやりたいと思っているけどねぇ、まぁ現実は他人の評価に一喜一憂しちゃうよね。

理想を追求しすぎると太陽に近づきすぎたイカロスのように落ちてしまうので、ええ感じに適当にするのがいいと思います。

じゃあ具体的にどうすればよいかというと、まぁ他人のことに関してはこっちはどうしようもないよな。エゴサに励んだりとかしかなくない?分からないです。

逆にこっちが推せる何かを探すというのがいいかもしれない。狩られる側から狩る側に回る的な。

私の「こっちは与える側」というのは、まぁ人間関係めんどくさいし、私を崇めよという気持ちも含まれてるわけですよ。なんかこう、人間関係というものを冷笑的に眺めてしまう人間嫌いの人見知りなので、そういう下々の毛づくろい的コミュニティはご遠慮被ってね、私という教祖に対しみんな私と無関係にインターネットの壁一枚隔てて尊敬とか親愛とか金とかヨイショとか勝手に与えてくれという感じなんですけどね。

でも私は本当に教祖になりたいかと言えば実はそれも嫌だ!!仮に教祖になったら私は信者であるみなさんを軽蔑するし、遊び半分で殺し合いとかさせちまうっつーの。信者なんかつまり劣化キヅミタじゃないか。存在価値ないよ。

そろそろ洗濯干さなきゃいけないので、なにも結論出てないけど、ではまたさよなら。

感想言うのに○○っぽいを多用する

私は感想言うのに「○○っぽい」を多用します。そう言われて残念だと思う作者もいるでしょう。私も自分の作品をそう言われたら残念だと思うかもしれない。

でも、こっちは今の解釈で自分の中の知識と一番合致してるのがそれなわけだからな。作品を論じるのに一番手っ取り早いのは「○○っぽい」だと思う。

作者の理想の鑑賞者はなかなかいませんね。

「○○っぽい」というのを聞いて全然違うよバカって思うこともあるでしょうな。いい例が思い浮かばないけど。

私は別に怖くもなんともない古い映像とかアニメが怖いとか不気味とか言われてたら「は?」って思うんですよ。

というのもね、その古い映像やアニメは別に怖がらせる意図じゃなくて、普通に楽しませる目的で作られたかも知れないわけで、その「よし、楽しませよう」という作者の思いのあるものを怖いとか不気味とか捉えるのは、なんか可哀想だと思う。

なんか全然乗り気になってくれんやんお前!みたいな苛立ちを感じるのね。楽しいものを怖いとか言うなよって思うけど、まぁこれも「違うよバカ」ってことだよな。

(ちなみにキヅミタはエロティック・ホラー・ギャグの人だから、キヅミタの作品を怖がるのは正しかったりもする)

結局、解釈は不完全だよな。他人にとっては作者の意図とかあまり分からないんだよね。だいたい作品っていうのは、一般的にはもっとなんか薄ーい、言語化できるより前の感じで受け取られることが多いんじゃないかと思う。

もう本当、刺激を受けて、「すげぇ」とか「キモい」とか、「キモいけど良い」とか、そんな程度なのではないか。

「良い」以上の感想言うのはなかなかむずいよな。

作品の感想って、「この作品はこんな感じ」っていう説明になることが多いよな。

となるともう、説明には「○○っぽい」というのが、手っ取り早いわけで…。


感想って、なんで言うんだろう?